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40年ぶりに日本で見るワールドカップ


 4年に一度の大会のたびに、このサッカーマガジンの誌面で『ワールドカップの旅』の連載を書かせてもらいました。今回もそのつもりでいましたが、体調の関係で現地へ足を運べなくなり、“旅”ではなく“日本で見るワールドカップ”ということになりました。
 テレビや新聞などのメディア、あるいはインターネットを通じて、また海外の友人、知人などの目や耳を借りながら、アフリカでの最初のワールドカップを、はるかに離れた関西の芦屋――六甲山麓から眺めてみたいと考えています。
 取材取りやめのいきさつも含めて「はるかに眺める南アフリカ大会」の第1回目とします。


 40年前の1970年メキシコ・ワールドカップは、自費出張の費用も用意し、取材手続きも済ませながら、当時勤めていたサンケイスポーツの編集長の一言「運動部長のキミが1ヶ月も休んでは新聞をつくれないじゃないか、ダメだよ」で全てフイになった。
 次の74年には、周囲を納得させる手を考えて西ドイツ大会を取材し、ヨハン・クライフと、フランツ・ベッケンバウアーの対決をナマで見た。編集局次長であった私の長期の出張を認めてくれた上司や仲間へは感謝の他はない。以来9回、編集局長のときも、企画会社社長のときも、新聞社とすっかり離れてからも、記者として取材を続けることができた。

 今回もフリーランスの記者としてJFAもFIFAも取材を認めてくれて、グループステージの取材チケットの申込みも済み、6月7日の飛行機に乗る予定でいた。
 旅程を見ると、7日にキャセイ航空507便で、関西空港を18時10分に出発し、香港に21時着、ここで南アフリカ航空287便に乗り換え、23時50分発、6月8日、7時25分にヨハネスブルグに到着することになっていた。85歳の私の出発に許可を出さなかったのは、自分自身の体であり、体からの声だった。

 一昨年秋から腰痛がはじまった。脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)という、老人にはよくある症状で、私の場合には第4腰椎と第5腰椎がずれて、そのため脊柱管内を通っている神経が圧迫されて痛みやしびれで歩行が困難になるということらしい。
 幸いなことに、昨年秋から良いドクターに巡り会ってリハビリも続け、5月末までは南アフリカへ出かけるかは五分五分の状態だったのだが、間際になって「現地へ行っても、この調子では周囲の人の足手まといになるのは目に見えている」という私の体の声が大きくなったのだった。
 行かない、あるいは行けない――ということになると、一気に落ち込みそうになった。考えてみれば4年に一度のこの大会のときには、いつも現地にいた。日韓共催の2002年のときも、日本と韓国の会場を飛び歩いていた。
 そして大会中、大会後に、そのワールドカップを書くという楽しみが待っていたのだ。

 今度の南アフリカ大会は、アフリカという私には初めての土地だけに、出かけてみたいという気持ちはずいぶん強かった。
 少年の頃、アフリカ探検物語に胸を躍らせ、アルベルト・シュバイツァー博士に傾倒した中学生後半から大学予科にかけて、その著『水と原生林のはざまにて』や『わが生活と思想より』はバイブルでもあった。英国宰相ウィンストン・チャーチルの若い記者時代のボーア戦争での冒険は、第2次世界大戦で特攻隊員となり、死ぬと決まっていながら生還した私には、ヨーロッパとアフリカの歴史に目を向けさせる強い刺激だった。

 記者となって南アフリカのサッカーを知った最初は、64年東京五輪のときのFIFA総会で、アパルトヘイトの南アフリカが資格停止となったときだった。
 92年にアパルトヘイトからの変革がはじまった南アフリカのサッカーを他誌の『サッカー、くに、ひと、歩み』の連載で取り上げた。この企画のため、東京の南アフリカ大使館に出かけたこともあり、アフリカでもっとも古いサッカー国の紹介をした18年前のこの記事にも、私のアフリカに対する思い入れがこもっている。

 今度の大会は、まずこの国での治安の悪さが問題とされている。ネルソン・マンデラという、人種差別政策に反対し続けて新しい南アフリカをつくった偉人の情熱と、それに賛同したFIFAのジョゼフ・ブラッター会長の姿勢を治安の悪さゆえに反対する声もないではない。だが、私は人類が類人猿から二足歩行に進化したと言われるアフリカという土地で、二足歩行に発展し、世界で最大のスポーツとなったサッカーが初めてのワールドカップを開催するようになったところが、とても面白いと思っている。

 現地にいなくても、その大会を見つめ、二足歩行の人類が生んだ多くの名手や各国代表チーム、さらには日本代表が戦うのを眺めることができる。
 遠くからでもそれを眺めることができる――85歳の今の幸いを皆さんとともにしてゆきたい。ご迷惑でも、しばらくお付き合いを……。


(週刊サッカーマガジン 2010年6月29日号)

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