賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >スウェーデン 〜その2〜

スウェーデン 〜その2〜


初めて見た外国のリーグ

 サンドビッケンで1泊2日した翌日は午前中に2時間ばかり鉄鋼所を見学、昼食をすませて再びストックホルムにもどった。昨夜は研究会を12時頃までやったためみんな寝ぼけ眼で朝食の席についたのを見ても相当な疲れがうかがえ、ストックホルムまでの3時間は全員が居眠りしていた。僕ははじめスウェーデンの風物を少しでも多く見ておこうと懸命に窓外を眺めていたが、やはりいつの間にか眠ってしまって気がついたらストックホルム市内に入っていた。  それでも6時から、ユーゴルデン対AIK(アイコー)を観たときはそんな眠さも忘れていた。とにかくヨーロッパのリーグ試合を初めて観たのがこの日であった。すでにスウェーデンのチームもドイツのチームも日本にやってきて日本のチームとした試合は観ていたが、彼ら同士が対戦したらどんな試合をやるのだろうか、それが観たい、というのがかねてからの願いであったし、またこの遠征の大きな目的でもあった。
本当のヨーロッパのサッカーを知ろうと思えば、彼らと試合するのも必要だが、むしろ彼ら同士の試合を観るほうがより役に立つだろうと僕は考えていた。実力に大きな差があるので彼らは日本チームと試合しても力を抜く気配がうかがえたけれども、彼ら同士の公式試合では力のすべてを出し尽くすに違いないからであった。

 交通が渋滞しないうちにと約1時間前に行ったら、間もなく4万を入れるロズンダ・スタジアムは満員になった。
 ロズンダは1937年に同国サッカー協会が建設した同国第一の専用サッカー場で、メインスタンドとバックスタンドが2階建て、メインの方は2階が5クローネだから日本円にして約350円ほどだったろう。一階が4クローネ。バックスタンドは1クローネずつ安く、立見席のゴール裏は2クローネで最も安かった。
 試合ははじめ15分間はいわば偵察戦というか相手の出方をうかがっている様子で静かにスタートしたが、20分を過ぎたころ、AIKがまず先制点を挙げてから次第に熟してきた。
 ユールゴルデンはハーフタイム近くに同点し、後半に入ってすぐCKから逆転した。するとこんどはAIKが半ばになってまた同点に追いつき、あと5分ほどのとき再び逆転してAIKが3−2で勝つというシーソー・ゲームに4万観衆は熱狂した。これが本場のサッカーというものか、試合の激しさにも観衆の熱狂にも初めてのわが一行は驚きまた興奮もしたようだった。

 詳しくは遠征の終わりにまとめるとして、この長身で分厚い大男のパワーとスピードから溢れる迫力――よくもこんな相手にベルリンで勝ったものだと感心する。ヘディング――こいつは、俺たちにはお手上げだ。よく動く。フォワードも守り、バックスも思い切って攻めに出ていた。ライト・フルバックが相手のゴールエリアまでドリブルで攻め込んだ。相手のレフト・ウイングもそこまで追っかけいていた。
 なるほどマン・ツー・マンが厳しくなるとこのようになるのか。ボールをもったら簡単には相手に渡さない。このキープ力は足技とは思えない。バスケットボールのようだ。こんな走り書きがノートに残っている。


のどかで美しい町

 ストックホルムは緑の陸地と青い入り江が交錯する自然の中に、それを傷つけた形跡もなく静かに美しく造られた町だった。また驚くほどに清潔な町だった。到着第2日目から宿泊したドームスというホテルは、大学生用のホテルを観光シーズンには一般向けにも使っているのだと聞いた。しかし、食堂とかロビーこそ簡素だったが、各部屋にはシャワーと便所がついていて部屋の広さも近ごろのビジネスホテルと称するものよりずっと余裕はあったし、これが学生用かと驚いたものであった。町は繁華街でもゴミ一つ見当たらない。銀座や心斎橋のように行き交う人にぶつかりそうな雑踏などはどこにも見当たらず、人々は先を急ぐ人もなく落ち着いて歩いていた。

 土曜日に買い物に出たら3時にはもう店が閉まって慌てた。日曜日は百貨店も何もかも店は休むと聞いた。夜にまた街に出たら店は閉めているのにショーウィンドーには明々と電燈がついていた。やはり盗難よけだろう、古いエレベーターに使われていたような伸び縮みする斜めの格子状のシャッターが一応引いてあったけれどもショーウィンドーの中の商品は十分に見える。それを家族連れや老夫婦がのぞいている。
 夜の散歩にこうして品定めをしておくと、店を開いている昼間に手の空いた者が買いにくることができるのだそうだ。つまりショーウィンドーに電燈をつけておけば、閉店中でも商品を宣伝することになる。
 そんなショーウィンドーをながめながら歩いていたら、とある靴店の前にきた。そのショーウィンドーの靴は日本の店のように整然と並んでいない。男女の靴があっちを向いたり、こっちを向いたり、ハイヒールの片方が裏を見せて宙に浮いているのさえある。そんな型破りな陳列につられてしばらくのぞき込んでいたら次第に意味が分かってきた。 ある男女各一足はダンスを踊っているステップの格好においてあったり、レストランで向かい合って食事をするカップルを想像させたり、夫婦が子供を挟んで散歩している形とか、片方のハイヒールが宙に浮いていたのは恋人の抱擁で背の低い女性が左足で背伸びし右足を後ろにはね上げている図だった。こんなアイディアの陳列はドイツにもなかった。のどかで微笑ましくしゃれて、いかにもゆとりのあるストックホルムらしかった。


スウェーデン料理か日本料理か

 僕は美しくてのどかなスウェーデンが非常に気に入った。ただ残念なのはスウェーデン料理をゆっくり味わえなかったことである。その機会さえもでたら6泊7日のスウェーデン滞在は試合に負けたのを別にして文句なしに良かっただろうと思う。
 実は17日スウェーデン入りしてスーリュダテリエの仮の宿に1泊した夜に有名なスメルゴスボードとか呼ぶ料理が出た。
 いま我が国で勝手にバイキング料理と呼んでいるあの形式で、中央のテーブルに各種料理が並んでいて、食堂に入ってゆくとすぐ食えるようになっていた。
 ものの本によると、むかし宿場に始まったもので、疲れて空腹の旅人が温かい料理が出てくるまでのつなぎにいつでもすぐ食べられるように揃えておいた冷食だとある。  デュッセルドルフの昼食以来10時間余、我々はまさに疲れて空腹の旅人であった。そうして眠い目を無理に開けて餓鬼(ガキ)のようにスメルゴスボードに群がったのだった。しかし、情けなや、それがいわば前菜料理だとは知らず、もうこの料理だけかと思って食った食った。見る見るテーブル上は空になった。ところがそのころ大きなステーキが運ばれてきた。恥ずかしながら一同すでに腹はふくれ、ビーフステーキを食い残したものも数人いた。僕もその仲間だった。
 そういう次第で一応スウェーデン料理を食うには食ったが、それが済んだら先を争ってベッドにもぐり込んだという状態だったから、ただ腹を満たすために放り込んだに等しく、料理を味わったという感じは全くといって良いほどに残っていなかったのである。

 それから5日後、サンドビッケンから帰ってきた翌日の22日がフリーになったとき、リーベルグ記者がスウェーデン料理をご馳走しようかといってきた。僕は、しめたと喜んだ。 ところがほぼ同時に日本公使館からも、日本料理を供したいと連絡してきたのである。やむをえない。みんなの意見を聞いたら、選手たちの「日本食が食いたい」が多数を占めた。
 僕は残念だった。もちろん僕個人望みがかなえられなかった点もあるが、この遠征ではその国々の料理を食うのも大いなる経験の一つだと思っていたし、またインターナショナルなサッカーをやる者はその土地の食事でコンディションを保てなくてはならない。1ヶ月や2ヶ月の遠征で米の飯や味噌汁が欲しいというようではダメだと考えていたのである。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年8月25日号)

↑ このページの先頭に戻る