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文なしパリ見物


フランス料理までは手が出ない

 8月23日、ストックホルムを朝に飛び立ってコペンハーゲンで乗り換えて夕方パリに着いた。ここでは試合の予定はなかったが、素通りするわけにはゆかないとみんな思っていただろう。
「夏のパリはつまらない季節だよ。みんな避暑に行っていい芸術家はいないし、催しものも少ない。空になった町をただアメリカの観光客がぞろぞろ歩いているだけだ」とも聞いていたが、それでもやはりいい町だと思った。ストックホルムの清潔さとは違った美しさ、古くて新しく渋くてしゃれて……いやパリがどんな街かなど今さら僕が書いてもはじまらない。

 26日の朝に早くもブリュッセルへ向かうまでのわずかな3泊4日であった。大学都市の日本館に泊った。大学都市は世界の数10ヶ国からの留学生のための寄宿寮が緑に茂る公園のような広い敷地に並んでいた。その端に日本館は建っていたのだが、内部は相当古くなったままで、何の飾りもないがらんどうの部屋にぽつんと置かれた鉄パイプのベッドに毛布をかぶって寝た。日本館からはみ出た3、4人は向かいのスウェーデン館に泊ったが、日本館よりきれいだと言っていた。戦争に負けた日本はまだそこまで手が及ばなかったのであろう。食堂は各館共用の大きなのがあったが、この旅行中では一番まずい食事だった。

 それまでにも学生宿舎に泊ったけれども、ストックホルムのドームスはホテルといってもよかったし、ギーセンでもこの大学都市の泊まり心地よりは数等上だった。しかし、わが一行の懐具合ははじめにも書いたようにきわめて淋しかった。パリは見たし金はなし、というわけで我慢しなければならなかった。華のパリならせめてもうすこしそれらしい宿でも、と人は言うかもしれないが、ドイツやスウェーデンのように招待してくれるサッカーの相手もないのに「大いに見聞を広めよ」と当地観光のスケジュールを組めたのを、むしろ感謝しなければならなかっただろう。

 ともあれ大学都市はどこよりも断然安くついた。一人当たりで泊りが一人部屋で400フラン、2人部屋で300フラン、食事は朝が60フラン、昼と夜がいずれも250フラン。当時は1フランをほぼ1円と見ていたから安いものだ。それにいろいろと世話していただいた留学生の方たち――パスツール研究所やソルボンヌ大学などで勉強している人でさえ、そのころはまだ苦しい経済事情で文部省の奨学金も少なくてこの大学都市で我慢しているのに、われわれが贅沢をいえない。
 というわけで24、25の2日間はそこを根城にせっせと見物に出かけた。リュクサンブール公園、ノートルダム、ルーブル、エトワール凱旋門……と観光バスで一応見て回った。聞いていたようにアメリカの観光団には行く先々で出会った。自由時間にもまた南のはずれの大学都市から各人思い思いにシャンゼリゼやブローニュの森やモンマルトルへと出かけた。

 しかし食事は到着の夜に大学都市の食堂にこりたので、以後はほとんど町で食ったようだ。僕も朝は近くの小さなカフェですませ、昼と夜は町へ出たが、結局かの有名なフランス料理なるものにはありつけなかった。第一に財布がきわめて心細いからだった。さらにどこで何を食わせるのかまったくわからなかったからである。一つ二つ聞いた名前の有名店らしきを見つけたが到底一行の財布の対象ではなかった。先のストックホルムにおけるスウェーデン料理といい、行く先々の特有の料理を食べるのは旅の大きな楽しみだが、文なしというのはまことに哀れだった。ことにパリでのフランス料理となるとそう簡単なものではないのか、一夕知人がおごってくれたのはビーフステーキだった。
 フランスの家庭では昼にご馳走を食べるそうだが、24日の昼にはオペラ座からマドレーヌへ行く道にあるアメリカ風のセルフ・サービスのカフェでみんなそろって食事をした。その店が覚えやすかったから、翌日の昼も独りでそこへ行った。もちろん値段が安かったし、現物を見ながら選べばよいのでフランス語を話せなくてもことが済んだ。


下戸が不便なとき

 僕はまったくといってよいほどに下戸である。旧い友人仲間では、あいつは飲めないからと無理に勧める人はもういないが、とかく世の中には、飲まないというと遠慮だと思うのか、そう言わずに少しぐらいとか、飲めないというと、立派な体格で飲めないはずはないと独り決めして、しつこく勧める人が少なくないので困る。その点、このヨーロッパ旅行では、一度飲まないといえば、それでもと勧められたことはなかった。

   ただ、飲めないといったために怪訝(けげん)な顔をされたことはある。ホッホラルマルクのボイグホルト家に泊まった初めての夕食に、何か知らないが強そうな酒を出されたとき。僕は飲めない、といったら太っちょのお主婦(かみ)さんが、“何だ飲めないのか、こんなうまいものを”といわんばかりににっこり笑って僕のグラスについだ酒までぐいぐいと飲んでしまった。このボイグホルト家は主人も昔から大酒飲みらしかった。ある朝、主人とお主婦さんが大声で言い争っているので目が覚めたのだが、あとでお主婦さんは「主人は昨夜“シュルターさんの店”でビールを飲み明かし朝にようやく帰ってきたのだ」と言っていた。だが主人はちゃんと会社へは平常通り出かけて行ったようだった。
 だからといって、酒を飲める奴をえらいとは露ほども思ってはいないが、ボイグホルトのお主婦さんが僕のグラスも飲み干してにっこり笑ったときには、不覚にも東洋男子の面子を失墜したのではないかと馬鹿な錯覚に襲われたのは確かである。

 さりとて無理をしてまでも酒を飲みは決してしなかった。PALの飛行機でマニラから西へ向かった日の夕食に、アペリチーフの酒はタダだというから、ものは試しとついカクテルを一杯飲んだところが、我ながら他愛なくあっさりと酔っ払ってしまい、運ばれた食事を前にグーグー寝込んでしまった。おかげで翌朝まで空腹をかこく苦い失敗をしたのである。以来貧乏旅行は人間を意地汚くするおそれありと悟って、こんな馬鹿なまねはもうしないことにした。
 しかしながら、酒が少しでも飲めたら便利だろうとつい感じた経験は数回あった。カクテルパーティ式の飲み物だけの会合では、ジュースやコーラではどうも間を持ちにくいのである。酒が少しでもいけるとチビリチビリとなめておれば話の合間を継なげるけれども、ジュースやコーラではチビリチビリとはゆかない。といってぐいぐい飲めばたちまち腹がふくれる。ボイグホルトのお主婦さんだけでなく、強い酒を相当やってもけろりとしている女性にも何人か会ったが、そんな婦人に対して大の男がジュースを持って立っている図は、構図としてもあまり感心できないだろう。まずこうした場合に下戸は不便であった。

 もう一つはパリでの話だ。日本を出る前に戦後もすぐ数々の海外旅行を経験していたI氏が、関西出身の数人を招いてヨーロッパ赤ゲットの心得なるものを講釈してくれたことがあり、その中に安上がりフランス美人鑑賞法とでもいうのがあった。
「パリに行ったら観ておかねばならないものは沢山あるが、フランス美人もその一つだ。だが文なしの君たちだ。一流のレストランなどに行けるはずはないし、そこに必ず美人がいるとは限らない。そこで文なし向きの美人鑑賞法を教えてやる。まあシャンゼリゼならば必ず行くだろう。行ったらカフェのテラスに席をとってブランディを注文する。そいつをチビリチビリなめながら道往く美人を眺めるわけさ。一杯で1時間でも2時間でも粘っていて差し支えない。これが一番の安上がりだ。カフェのテラスはなにもパリに限らないが、そこに座っていろんな人々を眺め風物を眺めているとその土地の雰囲気を感じるというか、なかなか面白いものだぜ」。

 というわけで僕もカフェのテラスに座ってみたが、下戸の悲しさ、コーヒーを注文したのではせいぜい20分ぐらいしか粘れなかった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年9月10日号)

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