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ベルギーで悔いを残す


ベルギーの町

 8月26日パリと別れてブリュッセルへ飛んだ。井上君と山路君が最後尾の席にいたら、後部が重いと離陸しにくいからと前の席へ移らされるなど、少々頼りない双発機は50分の飛行中にずいぶん揺れた。
 ブリュッセル空港では保母さんと小平さんに迎えられた。保母さんはヒヨコの雌雄差別という特殊技能を持って若くして戦前のベルギーに渡り、そのまま住みついて、フランスとの国境に近いワーレゲムから出てこられた。そのワーレゲムで我々は試合をすることになっていた。小平さんは上智大学の助教授で留学中だった。お二人とも日本のサッカーには少しの関係もないのだが、同国訪問の始めから終わりまで世話してくださった。

 ブリュッセルは意外に活気に満ちた新しい面と、ヨーロッパの中世がしみついたような古い面が共存している美しい町だった。
 見物はブランブラスという豪華な大広場から始まった。市の中心である。100メートルを超えると思われる大尖塔がそびえる市庁舎は大寺院のようで、500年の昔そのままだそうだ。その左のギルド・ハウスや向かい側の“王の谷”(いまは市立博物館)といい、ゴシックやバロック様式のきらびやかな建物に取り囲まれた広場に敷き詰められた石畳もまた同様に数百年前の歴史が今なお市民生活の現実の環境となっているということは、戦火に焼かれなくても古いものが簡単に新しいものにとって替えられる日本とは違った、ヨーロッパの都市の特色かも知れない。

 グランプラスのすぐ近くで有名な小便小僧を見た。その前まで行かないと気付かないほどに目立たない道端に民家の壁に背をくっつけるようにして立っていたが、思いの他に小さい像なので驚いた。その可愛らしい小僧も五百年前のものだという。
 市の南郊20キロ足らずのワーテルローの古戦場を見物した際に昼食をとったレストランで、わが一行のポスターを見た。試合地のワーレゲムはブリュッセルと80キロも離れている田舎だから、このポスターは多分保母さんの心遣いだったのだろう。

 3日目の28日にブリュッセルからアントワープを回ってゲントに寄りワーレゲムに向かった。チームは貸切りバスに乗り、僕は小平さん運転の車に同乗した。
 アントワープもノートルダムやルーベンスの家など文化の香りを漂わせ、ただの港町ではない古く美しい町だったが、ゲントはさらに古く落ち着いた情緒があった。どちらもブリュッセル同様にもちろん新しい面も持っているけれども、興味をひくのはやはり古い面である。ことにゲントは、中世がそのまま生きているように思えた。昼食をした地下室のレストランは15世紀に軍隊の司令部があったところだとも聞いた。

 こうした町々をつなぐフランダースの田園風景は明るく穏やかであった。ブリュッセルで買った生肉のミンチをはさんだサンドウィッチを頬張りながら走った。少し気味悪かったが食ってみればすごくうまかった。バスに乗った選手も小平夫人手作りの同じものを食ってやはりうまいといっていた。
 どこだったか途中、ヒッチハイクの2人の娘を見つけて小平さんが車を止めたら、スーツケースをさげて気軽に乗り込んできた。英国の大学生で、まさかこちらが日本人だとは思っていなかったらしいが、気にする様子もなく、1ヶ月ほど大陸を旅行してもう帰るところだという。希望する港町までは行かないといったら道が別れるところで「サンキュー」と降りて行った。


ワーレゲムでは敗れてがっくり

 ワーレゲムには保母さんの家がある。保母さんは雌雄鑑別の名人として成功し、この地の婦人と結婚して3人の子供があり、このあたりでその名を知らない人はないと聞いた。
 ワーレゲムは小さな静かな町だが折から夏祭りで宿は15キロほど先のコルトレクのホテルだった。その玄関にもわが一行の顔写真入りポスターが麗しく貼ってあった。

 さて夕暮れ近くくたびれてホテルに着いたのに、夕食はワーレゲムで席が設けてあるとの事で、荷物を置いてすぐホテルを出た。夕食のあとホッホラルマルク以来久しぶりの散髪をして全員さっぱりとなったけれども、ホテルに戻ったらすでに11時を過ぎ、風呂に入って寝たのが1時近く、みんな相当に疲労しているようだった。

 20日のサンドビッケン以来すでに1週間を旅と観光で過ごして、まったくボールに触れていなかった。これでは調子が心配だ。だが翌日は朝から大学生との懇談会が催され、午後には久しぶりにボールを蹴ることができたが雨中練習になってしまい。また夜はサッカー協会の歓迎晩さん会で休む暇がない。この日も就寝は11時を過ぎた。
 もっとくつろぎたいが保母さんはじめ当地の人々の厚意を断るわけにもゆかず、30日の試合の日も朝からワーレゲムへ出て市の歓迎レセプションに臨んだり、街頭を楽隊付きでパレードしたり、大戦の無名戦士の墓に花輪を捧げたりして慌ただしい半日を過ごした。保母さんの邸で昼食をご馳走になったあと、ようやく試合まで休ませてもらったけれども、ついに落ち着けないままに試合がやってきた。

 そうして、やっぱりだめだった。日曜日だし宣伝も効いていたらしくスタンドは簡素だが6,000、7,000の観衆で満員、楽隊の行進はさらに人気をあおろうとしているようだった。君が代が吹奏されて6時15分のキックオフ。
 相手のワーレゲム・クラブはC級とかで、我が方には少し気の緩みもあったが、動きがひどく鈍くて試合のカンも失ったようなプレーだ。蓄積した旅の疲れ以外の何ものでもない。サッカーの疲れとはちがってこうした疲れは精神的な張りも失わせてしまう。
 立ち上がりから連続3点を取られてしまった。選手だけでなく僕も注意力が散漫になって大きなミスをした。たまたまプレー中断の機を見て選手交代を申し出たら、それが相手方のスローインの場面だった。しかも僕は交代選手にマーク相手を確認させないままうっかりと送り込んでしまったところ、交代選手がマーク相手をすぐ捕まえきれずまごまごしている間に素早くそこへボールを投げられ、そのまま持ち込まれて得点につながってしまったのである。前半0−4、後半は少し立ち直って2−3だったが、計2−7の思わぬ大敗となった。

 選手には大きなショックだった。保母さんの家では夜のご馳走を並べて迎えられたが、しょげきった選手は食事に手をつけようともしない。竹腰さんも松丸さんも苦りきった顔である。保母さんの方がかえって取りなすように「どうぞ、どうぞ」と気を使われる。僕は、みじめな負け試合だったとはいえ、あまりにそれにこだわって滅入ってしまってせっかくのご馳走をも食べないでは、かえって保母さんに悪いと思ったし、疲れて腹は空いているのに食わないのは体にも悪かろうと「試合の反省は改めてすればよい。ここは気を取り直して折角のご馳走をいただこうじゃないか」と励まして自分からナイフとフォークを取り上げては見たが反応がない。とにかくこの夜ほど気まずい思いをしたことはなかった。

 いや、むしろ保母さんこそ一番のショックを受けられたのではなかろうか。日本を離れてすでに久しい。その間にベルギーを無法に侵害したドイツと同盟を結んだ祖国の敗戦を聞いて八年、その敗戦から立ち直る祖国から青年たちがはるばるやってきた。
 しかも第2の故郷となったワーレゲムでの試合が実現した。こんな嬉しいことはない。頼もしく力一杯にプレーして、できれば勝ってほしい。勝てなくてもワーレゲムの人々に感銘を与えるような試合をやってほしい。そのあと青年たちと食事をともにして楽しく語り合おう。保母さんはおそらくこんな思いでこの日を待っておられたにちがいない。

 ブリュッセル以来の親身の世話やワーレゲムの歓迎ぶりから、異国に久しい保母さんのそうした気持を選手たちは痛いほど感じていたのだ。そうしてその保母さんの夢を壊して情けなかったのである。僕もいまなお保母さんにすまなかったと思っている。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年9月25日号)

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