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初めて観る本場のプロ試合


サッカーの母国へ

 8月31日いよいよ英国にはいった。ここはサッカー発祥の国である。ヨーロッパはどの国に行ってもサッカーは盛んで、かならずしも英国が最高のサッカーをしているわけではないけれども、いわばサッカーの僻地(へきち)から初めて英国を訪れてみれば、やはりひとしおの感慨を覚えるのだった。飛行機が高度を下げるときれいな芝生の広がりの中にゴールが白く点々と見える。とりわけ英国だけの風景ではないのに「おい、ゴールが見えるぞ」と騒々しくなった選手たちの気持も同じなのだろう。

 さて税関に来ると我々はしんがりに回された。僕は多分団体だからだろうとさして気にも留めていなかったら、われわれのすぐ前にいた日本の商社員らしい人が「ここでは日本人はいつもしんがりですよ」と教えてくれた。サッカー人にとっては夢の国である英国はまた8年前の敵国でもあったのである。その人はトランクを開いて丹念に調べられている。かねてロンドン税関は厳しいとは聞いていたし、20人があのようにやられてはいつまでかかることかと少なからずうんざりしていたら、いざ順番が回ってくると以外にも先頭の竹腰さん以下全員が一人も調べられないで通ってしまった。
 どうしたわけかと不審に思っていたら竹腰さんが「いや、何の目的で来たのかと尋ねるから、我々は日本からきた大学生のフットボール・チームで、イングランドのフットボールを勉強しにやってきたのだ、というと、オールライト、行けというわけだ」とちょっぴり得意の様子であった。竹腰さんはここをすんなり早く通れるためにとこの答えを考えていたらしいが、思うつぼにはまってサッカーの本家の自尊心を巧みにくすぐったのか、ここ英国ではスポーツマンは信用されるからだろうか、詳しくは判然としないが、とにかく竹腰さんのご名答が功を奏して全員は大いに助かった。

 実はこのロンドン入りの日は、ワーレゲムの隣町、コルトレクのホテルで朝叩き起こされたのが5時半。バスで飛ばしてブリュッセルに着いたのが出発時刻の9時半ぎりぎり。手続きをしているうちに出発時刻が過ぎてしまったが、飛行機が待ってくれて危うく滑り込んだという慌ただしさだった。睡眠不足の選手は機中で不足を取り戻そうと思っていたらしいが、それも2時間足らずで11時半にはロンドンに着いてしまった。そういうわけで税関で時間を取らなかったことはまことに好都合で、すぐハイドバークに近いアスターホテルという宿に入り、その日の午後は外出も避けて専ら休養に当てたら、積もり積もった旅の疲れもワーレゲムで敗北した後味の悪さも間もなく回復したようだった。


アーセナル対シェフィールド

 我々が英国を訪れた目的は二つあった。一つは英国の学生と試合をすること、もう一つはプロの本家のイングランド・リーグの試合を観ることだったが、先にやってきたプロ観戦の方から始めよう。

 到着の翌日の9月1日のアーセナル対シェフィールド・ユナイテッドに招待してくれた。アーセナルは、日本でもイングランドのプロといえばまずその名が浮かんでくるほどの名門である。我々が訪英した前のシーズンには7回目の1部リーグ優勝を記録し、FAカップ優勝も3回の歴史をもっていた。片やシェフィールド・ユナイテッドは、リーグ内での浮沈はアーセナルより激しく1部優勝は1回にとどまっていたがFAカップではアーセナルを上回る4回を記録していた。そうして前シーズンではアーセナルがリーグ優勝なのにシェフィールドは2部で戦って我々が行った1953-54年シーズンは1部3度目の昇格をしたところだった。
 いわば横綱と前頭のしんがりの対戦であった。しかし、この日はリーグが始まって間もなくで第5試合目だったけれども、それまでにシェフィールド・ユナイテッドが2勝2敗で12位にいたのに、アーセナルは1引き分けの1ポイントで尻から2番目の21位という不調な立ち上がりで、アーセナル・ファンにとってはまことに気の揉める頃だったのだろう。アーセナルのホーム・グラウンドである6万8,000人収容のハイバリーのアーセナルスタジアムは満員になった。

 サッカーでは初めて実際に見る大観衆だった。メインとバックの両スタンドは2階建ての屋根付きで、選手はメインの1階席へ、竹腰さん、松丸さんと僕の3人はメインの2階席へ案内された。そこはクラブの役員や賓客用らしく椅子がよかった。


音楽隊を使う趣向

 フィールドの絨毯(じゅうたん)のようにきれいな芝生にはまだ選手はあらわれていなかったが赤と黒で彩った制服のブラス・バンドが演奏していた。プログラムには演奏曲目まで載っていて、バンドは首都警察中央バンドとあった。選手が現れたのが6時15分のキックオフ10分ほど前で6、7分軽く蹴ったり走ったりしてまた引き揚げた。この間もバンドはフィールド内で演奏を続けていた。
 試合待ちの観客の退屈を音楽で慰める趣向と試合前の練習の簡単だったのが大いに気に入った。しばらく後の朝日招待大会(西宮)で阪急百貨店の少年バンドを招いて試みてみたら、日本では試合前の練習にむやみと大勢の選手が出てきて長々とやるから互いに邪魔しあって成功しなかった。

 ここにきて立見席なるものに初めて気づいたのだが、ここでは4面のスタンドの最前部が一段低くなっていて、そこが立見席だった。胸から上がフィールドのレベルより高くなる程度の深さでぎっしり詰まっていたので、これではさぞ苦しかろうと思っていたら試合が始まらないうちに早くも倒れる客が出た。すると、日本の野球場で見掛けるのとはちがって、そろいの制服に身を固め救急カバンを背にした救護班がすぐさま駆けつけて担架に乗せていった。


もうひとつ物足りない試合

 ところで試合だが、正確で強力なキックやヘディングや無骨なようで実は正確なボール・コントロールといい、またフィールド一杯に走り回る精力とスピードなどすべての技術はさすがにわが日本の到底及ばないものだとみえた。またロング・パスからウイングの疾走、高く大きなセンタリングといったフィールドいっぱいの大きな展開は聞いた通りの英国サッカーだと思った。
 またこれが近代サッカーの新しい傾向だと思われるものも発見することができた。たとえばインナーの守備が非常に深いこと、ウイングやセンターフォワードのFW第一線といえども相手のフルバックやサードバックの前進(攻撃)に対しては厳しく責任を分担してそれが攻めに出ると徹底的に追っかける(サードバックの進出は実際には少ないが)など守りを固める強い指向を感じたこと、また逆に攻めるときには両フルバックも思い切って第一線へ進出するなどバックスが攻撃にも積極的に加担することなどがあげられるだろう。

 しかし、正直いって意外にもいまひとつ物足りなかった。たしかにスピードがあり、力強く豪快なのだが、単調なのだ。柔軟さが乏しいというか、戦術的にキメが荒いというか期待したほどのうま味を感じなかった。そうした点ではむしろスウェーデンのユーゴルデンやアイコーの方が変化に富み面白かった。ただひとりシェフィールドのヘイガンという35歳のインサイド・ライトがスピードはなくても柔らかい技巧的なプレーで荒武者どもの中の特異な存在としてチャンスを作っていたのが印象に残った。勝負は1−1だった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年10月10日号)

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