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日本サッカー英国で初めての試合


全英大学の編成も初めてだった

 それまでに日本と英国が試合した公式記録は、昭和13年のイズリントン・コリンシァンズを迎えて全関東が戦った1試合だけで、東京で行われた。しかし今回は日本が初めてサッカーの生まれ故郷英国で行う試合である。我々にとってもそれは遠征中の最大の夢であった。
 だがここはサッカーの本家で世界一大きなプロ組織が人気をさらっているところ、それに英国民は誇りが高いし、また日英は日独とはちがった関係にあるから、我々アマチュア、ことに学生チームではほとんど見向きもされないのではなかろうか――密かに僕はそう覚悟していた。ドイツのような賑やかな出迎えもなく、協会関係者2、3人が迎えてホテルまで案内してくれただけ。オッフェンバッハのあの忙しい歓迎行事に似たものは、翌日の昼にロンドン大学に招かれた以外には全く予定されていなかった。それも当然だと思っていた。

 そうして到着の日の午後はゆっくりホテルで休養をとっていたら、デイリー・メール紙の記者がきて、竹腰さんの話を取材して、そのあと写真を撮らせろという。
 あれこれ注文して4、5枚撮って帰った。
 そんなことがあったので翌朝あるいは……と思いながら新聞を見たらデイリー・メールがびっくりするほど大きな写真を使って紹介記事を載せていた他、我々の到着は他の新聞にも報道されていた。ことに村岡君や木村君らのドルトムントで活躍した選手を取り上げているのを見ると、思っていたほどに無関心ではなさそうである。折からホテルへ訪ねてきてくれた朝日新聞の松岡特派員にそれを話したら、
「結構そう無関心ではないぜ。ベタ(一段見出し)だけれども2、3日前にはタイムズも扱っていたからたいしたものだよ。ドイツは特別なのじゃないか」という。同君は僕と同じころ関東大学リーグの1部で東京商大(現在の一橋大学)の選手をしていた友人で、やはり日本チームの初めての訪英にどんな関心が示されるかと気にかけていたらしい。

 そうこうしているうちに、相手のブリティッシュ・ユニバーシティズ、つまり全英大学選抜チームは初めての編成であると聞いた。この場合のブリティッシュはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4協会地域を含む意味らしく、実際にはオックスフォードやケンブリッジなどのイングランド勢以外にはウェールズのバンガーから2人だけではあったけれども、大学の全英選抜とうたった例は従来にはなく、全日本の大学から選抜したチームを迎えて、特別のはからいを尽くしてくれたことが分かった。


敢闘空しく0−2

 その11人の中にはイングランド4人、ウェールズ1人と計5人のアマチュア代表選手、ブラックプールとトットナムなど一流クラブに登録している選手4人、またウェールズの一人はイングランドのプロ1部から買いがかかっているなど、なかなかの強力メンバーを揃えていた。こちらもオッフェンバッハのときのように招宴や見学観光に引きまわされることもなく大分休養できたし、初めてプロ試合を観て気分にも相当の張りがうかがえるようになった。

 9月2日、アマチュア・リーグに属するサウスフォール・クラブのスタジアムには3,000〜4,000の観衆が入っていた。キックオフは夕方6時15分だが昼の明るさだった。試合前に短時間だが猛烈な夕立が降って滑りやすかった。
 前半は少しかたくなって調子に乗れず、押され気味でバックスが必死に守って何とか支えていた。キーパーの村岡君やセンターハーフの山路君らが何回かピンチを救った。山路君は30分ごろだったか強烈なシュートに対して得意のダイビングで止めようとしたところボールが後頭部に当たってしばらくフラフラと変な走り方をするので心配した。

 試合前に試合球を見せてもらったらびっくりするほどの硬さだった。はち切れんばかりのカチカチで、もう少し柔らかくしてくれと申し込んだが頑固に聞き入れてくれなかった。その硬いボールを80キロもあろうかと思われる大男があのごつい英国式の靴で2、3メートルの距離から力いっぱいに蹴った球だから、タフな山路君もさすがに堪えたようだった。
 そうして前半が終わりに近づいたころにクリアが小さく、こぼれ球のようになったのを拾われて2点を奪われた。37分にライト・インサイドのウーズナム(ウェールズ代表)に、43分にレフト・ウイングのハーベイ(ロンドン大学)にしてやられたのだが、ほんのちょっとした綻びというか不運な失点であったので残念だった。

 後半はそんなスキも与えず対等の戦局だった。
 鈴木君、徳弘君、木村君らのシュートやタイムアップ近くには小林君のヘディングが全英のゴールを襲い、キーパーのシャラット(リーズ大学、イングランド代表)を右往左往させた場面が幾度かあった。木村君らのスピードは十分彼らに脅威を与えたようだが、最後の締めくくりの場面で英国式の強烈なタックルにバランスを崩されチャンスを生かしきれなかった。
 僕の感じでは、全英は技術的にはドルトムントのユーゴ、スペイン、エジプトに及ばず、ドイツと互角だった。すぐれた体格から受けるボリュームとパワーは我々にとって大きな圧力ではあったけれども、将来機敏な動きを生かし個人技(ボール扱いの幅)をつければむしろ大陸チームより御しやすいのではなかろうかとも思った。


評判は上々だった

 結局試合は1点も返せないで終わったけれども、わが学生選抜は彼らにどんな印象を与えたのか。翌朝たまたま手に入った2、3の新聞は次のように書いていた。

▽ニューズ・クロニクル
「日本の補欠キーパーは三千の観衆の歓呼を浴びた。彼の軽業のようなゴールキーピングに全英チームはほとほと困っていたのに彼は“非常に気持ちよかった”といってのけた。(注=予告したキーパーは玉城君だったので村岡君を補欠と思ったらしい)試合もまた気持ちよく、6フィート(約183センチ)以上が8人、アマチュア代表が5人もいる全英よりも日本の方がよく訓練されていた。ただ日本はロング・パスを使おうとしなかったのが密着守備をする大きな体格のわが守備陣を破れなかった原因だ。日本では最も背の高い5フィート8インチ(約172センチ)の山路はイングランドのどのサイドバックにも劣らず粘り強い選手だ。彼は強烈なシュートをヘディングで防いだしオールド・ファッションのスライディング・タックルだが大喝采を博した」

▽デイリー・エキスプレス
「日本がわずかの差で敗れると100人ばかりの少年がグラウンドに飛び込んで、まさにそのプレーにふさわしい背番号1をつけたこの日のヒーローのキーパー村岡へと向かって殺到した」
(そうして村岡君の感想と竹腰さんのサッカーを勉強しにきたという話とを伝えたあと) 「ペガサスのドクター・トンプソンが日本は完全にゲームを知っている、というように日本選手はこの上サッカーのレッスンを必要としない。観衆は非常に日本チームが気に入ったようだった」

▽マンチェスター・ガーディアンは約70行の記事の中で、
「日本チームは0−2で負けたが、面目を失うどころかむしろ全英をしのぐプレーを見せた。英国の教科書からの勉強に加えて今回のヨーロッパ遠征の経験は明らかに日本チームをはつらつとした非常に興味をそそるチームにしていた。
 体格で劣るところは判断と動きの素早さで十二分に補い、駄目かとみえた状況を幾度か切り抜けた。(中略)とくにバックスのカバーリングが見事だった。キーパーの村岡は機敏で予測もよい。頭のひらめきが鋭く、脚も速い日本に比べると、全英は鈍重で逆に適応力の実物教育を受けているかに見えた。(後略)」と書いた。

 なかには面映ゆい讃辞もあるが、いささか彼らをびっくりさせたのは事実だったようだ。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年10月25日号)

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