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ベルリンの栄光を味わい戦後の日本サッカー復興期を支えた実力者 小野卓爾(上)


しっかり勘定、細かい目配り

 先輩たちは小野卓爾の“卓”まで入れて「おのたく」と呼んでいた。後輩も陰では「おのたく」または「おのたくさん」と言っていた。理由は定かでないが、単なる「おのさん」よりこちらの方がこの人らしかったからだと、今でも思っている。
 戦前から大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の役員として約40年間、サッカーに尽くした。戦後の復興期に7歳年長の野津謙第4代JFA会長の下で、同年代の竹腰重丸さんと小野さんはJFAの2本柱で、竹腰さんが“技術の神様”であったのに対して、小野さんは協会経営の実務を取り仕切る実力者だった。太平洋戦争のための中断期があったうえに、戦災による経済的困難な時代があり、東京オリンピックに向かって日本中が前向きとなった時代を経て、日本サッカーは徐々に今の発展の基礎を築いていく。その時期に打った布石――「外国人コーチ、デットマール・クラマーの招聘」「全国リーグ、日本サッカーリーグ創設」「メキシコ・オリンピックへの準備と代表強化」「FIFAコーチングスクール開催」といった数多くの施策は、野津会長の情熱や先見性、あるいは小野さんよりもはるかに若い世代の情熱から生まれたものだ。それらの仕事の効果と貧弱な協会財政を物差しにかけて、時には分不相応に見える計画をも承認し、実行していった“実力者”がいなければ、事は運ばなかった。
 関西が主な仕事の場であった私は、直接には関わることは少なかったが、「小野さんの承認を得ておく」ことがJFA関連の仕事を進める上で、関西協会での常識になっていた。

 1959年(昭和34年)の第1回アジアユース大会の日本選手団に、私が報道役員として同行、3位入賞で帰途にあったとき、小野さんからこんな指示がきた。「大会3位入賞は、今の日本サッカーのどん底時代の朗報だと野津会長はとても喜んでいる。会長は参加者全員に大会の記念アルバムを作って贈呈したいと言っている。ついては、そのアルバム代として3万円が必要になるので、その全額を貴君に預けている選手団の予備費の中で作ってほしい」と。
 つまり、3位入賞の記念アルバムを協会で製作する。しかし、お金はチームの予備費の中で工面しなさい――というわけだった。
 ユース代表高校選抜チーム選出の際にも、出身の府県協会から一人20万円の参加費を負担してもらった時代だから、協会の財政も楽ではなかっただろうが、こういう細かいところまで目を配る「実力者」の仕事も大変だなと思ったものだ。


オリンピック役員として

 小野卓爾さんは1906年(明治39年)、あの日露戦争終戦の1年後に北海道で生まれている。北海道出身の競技者としては、2歳年長の南部忠平(1904−97年)が有名。1932年(昭和7年)のロサンゼルス・オリンピック三段跳び優勝の南部さんや、前述の竹腰重丸さんたちがそれぞれのスポーツの最高を極めようとしたのに対して、小野さん自身は選手畑よりもサッカーの世話役の道を歩いていた。
 1925年(大正14年)、札幌一中に入学して、ここでサッカーを覚え、1927年に中央大学予科に入学してサッカー部をつくると、東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)に加盟、4部リーグに出場するとともに、自らは関東大学サッカー連盟の会議に予科1年のときから中大の代表として出席するようになって、在学中、ずっと連盟の役員としてリーグ運営に関わった。
 その頃すでに東大を卒業し、JFAの理事でもあった野津さんは学生サッカー連盟のOBとして総会などに出席していたから、2人の縁はこのときからだろう。1933年、中大法学部英法科を卒業した小野さんは、翌年、関東蹴球協会理事となり、1935年、JFAの代表となった。
 小野さんはその実務力で、1936年のベルリン・オリンピック日本代表の主務として、鈴木重義監督、竹腰重丸、工藤孝一両コーチと共にサッカー界初のオリンピック参加メンバーとなった。伝統の浅い中大の出身者という点からゆけば、破格の人事だった。


(月刊グラン2010年10月号 No.199)

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