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東京とメキシコの成功を将来に備えたFIFAコーチングスクールやJFAと中央大学の発展と基礎を築いた“実力者” 小野卓爾(下)


 グランパスの首位を走る姿に、サッカーも名古屋だ――とのサポーターの声が聞こえてくるような気がします。

 さて、この連載は11月号で、私、賀川浩の「サッカー殿堂入り」について書かせて頂きました。そのために、10月号での『小野卓爾(上)』の続きは1ヶ月遅れることになりました。
 その10月号で小野さん(第2回殿堂入り、1906−91年)が中央大学の学生時代から学生リーグの運営やチームの実務などで周囲に知られるようになり、1936年のベルリン・オリンピックにはサッカー日本代表チームの主務に選ばれたことを紹介しました。中大サッカー部のその頃の大学リーグでの立場からゆけば“異例”の抜擢ともいえたが、それだけに小野さんの実務力と人柄が信頼されていたといえる。

 ベルリン大会では、ご存知のようにノックアウトシステムの1回戦で、強豪スウェーデンに逆転勝ちという輝かしい成果を挙げた。2回戦の対イタリアは疲労が抜けず「まるで別人のような試合」(ドイツ紙の批評)をして0−8で完敗したが、大会前のドイツとの試合にも勝って、優勝候補と見られていたスウェーデンを0−2の劣勢からひっくり返した勝利と実力は、ヨーロッパでも高い評価を受けた。大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)創立から15年、旧制中学、その一つ上の高等学校の全国大会(インターハイ)や、関東、関西の大学リーグも充実して個人力も伸び、選手たちの実力アップもあったが、鈴木重義監督(当時34歳)竹腰重丸(同30歳)工藤孝一(同27歳)の両コーチ、そして主務・小野卓爾といった、選手をリードしバックアップする役員たちの組み合わせも良かったといわれた。当時30歳の小野さんは、ここで得がたい経験を積んだ。


野津謙会長、技術の竹腰とともに

 ベルリンの後、日本の社会は大戦争への傾斜を強めるが、その中でも小野さんの仕事は続く。1938年にはJFAの理事となり、1941年には大日本体育協会(現・日本体育協会)の総務委員となる。大戦直後はしばらくJFAを離れる。1946年4月に中央大学サッカー部監督、同大学の助教授となって、以来40年、自分がつくったこの大学のクラブの強化に尽くす。やがてJFAでも野津謙さんの理事長就任の年、1951年に常務理事となり、専務局長となる。野津さんとは学生連盟の頃からのつきあいで、大戦中も保健衛生のドクターであった野津さんに見込まれて、産業報国会中央本部保健部長といった肩書で仕事をしていた。

 その野津さんを助けてのJFAでの働きは、1955年に野津さんが第4代会長になってからも(1976年退任)変わることはなく、東京オリンピックの開催と、対アルゼンチン戦の勝利、1968年のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得へと栄光への道を“技術の神様”竹腰重丸さんとのトリオで歩んだのは、多くの人の知るところだろう。
 代表強化のための、日本スポーツ界での初の外国人プロコーチ、デットマール・クラマーの招聘や“メキシコ”の後に時を置かず開催した第1回FIFAコーチングスクールといった、実効性があり、しかも将来への布石となる仕事を進めたのは、野津会長の素晴らしい発想と竹腰さんの深い造詣に加えて、実務とにらみ合わせて実行に移す“実力者”小野さんがいたからこそと思う人が多い。10月号で紹介した外国遠征チームの予備費から浮かせた3万円のエピソードは、そこまで気を配る実力者の周到さの一端だといえる。

 中央大学サッカー部が、1927年に小野さんが入学して創部したときの関東大学リーグ4部の位置から、その後、天皇杯優勝2回、大学選手権優勝5回、関東大学リーグ優勝4回という日本のトップの実力を持つようになり、多くの名選手を生み出したのも小野さんの功績だ――と後輩たちは一様にいう。夏期合宿を1ヶ所でなく毎年変えて、全国各地を回り、そこで講習会を開いたのもいかにも小野さんらしいアイデア。子どもたちにサッカーを広めることと、中大サッカー部の印象を植え付けるという一石二鳥の効果があったはずである。

 関西学院卒業後に中大に学士入学して、サッカーを磨いた後輩、長沼健さんにJFAを託して、小野さんは故郷の北海道に戻った。1991年2月に亡くなったが、札幌にプロのチームができ、北海道からも代表選手が生まれるようになった今を、天国の“実力者”はどのように見ているのだろうか――。


(月刊グラン2010年12月号 No.201)

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