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英国からスイスへ


自尊心・謹厳・頑固

 全英大学選抜との試合がすむと遠征はほぼヤマを越した感じで、翌9月3日には在留邦人に案内されてみんな朝から見物に出て行った。
 だが僕はドイツ以来コーチと雑役的マネージャーとの兼務で右往左往した疲れが積もって、見物に出かける元気などまったくなく、正午近くまでぐっすり眠ってしまった。そうして気分が幾分良くなって、家内への土産でも買いに出ようかとしていたところに、折よく松岡君が現れたので、早速案内を頼みデパートへ行ったのである。
 松岡君が白髪まじりの年輩の店員をつかまえて相談をしてくれた挙句に、英国らしい品ということで柔らかくてかさばらないカシミヤの“えり巻き”とスウェーターを買うことにした。

 そこで松岡君がその老(?)店員に、「その婦人用のマフラーを見せてくれ」といった。するとそのおじさんは誠に謹厳な顔付きで「はい、これはスカーフです」と訂正するではないか。実は「はい、このスカーフでございますか」という程度の軽い意味で訂正の気持などなかったかも知れないが、あまりにも厳かな声でいうので英語に慣れないわたしには、「マフラーなどとはいいません。スカーフというのですよ」といかにも英語を教えてるかのように響いたのでいささかびっくりした。松岡君も、「英国人というのはどうもこの調子でね」と苦笑していた。
 これだけで英国人を語ろうとするわけでは決してないが、わずかな4泊5日のロンドン滞在中に、これに似たことを3度4度と経験すると、英国人とは誠に自尊心の強い連中だという印象が次第に大きくなってきたのである。
 自尊心をはた目で見るとまず謹厳と映るのであろう。ロンドン到着の際の空港税関吏によって味わった第一印象がまずそれだった。先にも書いたように竹腰さんが彼らの自尊心を巧みにくすぐって「フットボールを勉強に来た」というと意外にも無検査で通してくれたのだが、そのとき彼はにこりともせずまったく真面目くさって突っ立っていたのだった。
 ロンドンの街はもともと明るい街ではなく、すすけた黒ずんだ街である。またローマやパリのように、にこやかに楽しそうな顔が歩いている街ではなく、むっつりとしかつめらしい顔がたくさん歩いている街だった。それは自尊心が歩いているような気がしないでもなかった。謹厳のうちはまだよいが、その自尊心が頑固の城に達すると少なからず閉口した。

 ホテルに着いたとき、コーチとしては選手の部屋割りを自分でしたいからカギを一括して渡してくれないか、と頼んでも頑として応じてはくれなかったフロントのばあさんの話。サウスオールでボールが硬すぎると訴えてもこれでよいと言い張られた話。この2つもすでに書いたけれども、いずれも頑固の部類だった。
 しかし、感心するほどに見事な頑固さをもまた見たことに触れておかねばならない。長い行列を静かにつくってあの赤い2階バスを悠然と待っている市民の姿がそれである。戦勝国といっても牛肉の配給制がようやく解けた直後で、当時はまだ一般市民の生活に余裕があるとはいえないと聞いたものだが、彼らにはいらいらした様子もなく赤いバスの順番をじっと待っていた。しかもバスは座席が埋まったらあとはもうほとんど客を乗せなかった。せいぜい立つ客が4、5人にもなったらもう走り出した。日本流に見れば、まるでガラ空きに近いままで走り去るのだから「もっと乗れるじゃないか」と一悶着が起こること請合いだけれども、たっぷり積み残された彼らは文句もいわず、行列も乱さずに平然と辛抱強く待ち続けているのであった。何も感心するほどのことでもない生活の知恵だといえば当然のことだろうが、分かっていてもやれないのと、分かっていれば頑強にやり通すのとの違いは自尊心の強弱ということになるのだろうか。


密かに企んだスイス行

 せっかくの自由な一日を半日寝て暮らし、サッカーの他には謹厳と頑固に閉口したり、感心しただけで英国を去るのは少し物足りなかったけれども、次のスイスへの出発は僕にとっては待望の旅だったのである。
 狭い山あいをまるでロープウェイで揺られているようにゆらゆらと山肌近く飛行機が飛んで、抜け出たら間もなくジュネーブ空港へ着陸態勢に入った。確かにその時だった。竹腰さんが「さあ、これからは大谷のいう通りにしておればいいんだな」というので「どうぞ気楽にしてください」と答えたら、松丸さんに「団長は大谷に交代だ」とまぜかえされた。

 という訳はこうなのである。この遠征に加わると決まったとき、よーし、この機会にぜひともアルプスを見てやろうと僕は決めた。僕は山が好きだけれども、日本アルプスとはスケールの違う本物のアルプスならば、選手にもきっと感銘を与えるに相違ない、いや彼らのサッカーにも何かプラスをもたらすだろう、と都合のよいことまで僕は考えた。そこでいよいよ遠征スケジュールを決める段階になったとき、竹腰さんと松丸さんに向かって、せっかくヨーロッパに行くならばアルプスを見ない手はない。普通の身なりで4,000メートルの山に立てるのですよ、と僕はスイス行きを強く勧めた。その代わりスイスでの旅行については僕が一切の世話をするともいった。
 すると竹腰さんも松丸さんも「それはいいな」と少し気持が動いたように見えた。そうしてしばらくたって出来あがった渡欧日程表を見ると、9月4日ロンドン発ジュネーブ着で7日まで滞在し、ユーゴのベオグラードへ向かうようになっていた。また滞在中の行事欄には相手未定でただ試合とだけ書いてあった。このあたりが微妙なところで、試合がなければ必ず山に行けるが、試合があればその試合日次第となり、6日の日曜日だともう山へ行く余裕はなくなり、5日だとぎりぎりで行けるかも知れない。
 しかし僕は何か何でも山へ行こうと密かに計画を進めた。初めはツェルマットに泊ってゴルナーグラートでマッタンホルンを眺めたかったが、それは日数上まったく無理なので、インターラーケンに泊ってユングフラウを登ることにした。試合でユングフラウに登る時間がないときは、グリンデルワルトに泊って山を眺めるだけでもよいと考えた。

 早速、日程が変わるかも知れないと事情を書き添えてユングフラウ行きの旅行プランを組んでもらうことをルッツェルンのFさんに依頼した。Fさんの夫人が好都合にも旅行会社に勤めておられたので「日程が決まり次第知らせてもらったらすぐプランを組んですべての手配をする」と折り返し返事があった。
 山登りにスイスへ行くとは出発前にはおおっぴらにいえないが、竹腰さんも暗黙のうちに了解しているらしいとみたので、とにかくそこまで事を運んだままで羽田を出発した。ただこの企みの重要な条件となるスイスとユーゴでの試合が本当に決まるのはドルトムントでということだった。そうしてドルトムントで交渉の結果は、スイスの試合は実現せず、ユーゴではやることになった。もしスイスでの試合がないうえに、ユーゴの試合もなければ、ロンドンからわざわざスイスへ寄り道の理由がたたなくなっただろう。交渉の結果はまったく僕の企みには具合がよかった。一行はユーゴへ向かう7日の昼までをスイスで過ごすために、4日の午後1時過ぎにジュネーブに着いたという次第なのであった。そうして僕が世話をすることになった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年11月10日号)

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