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ユングフラウを楽しむ スイス その2


試合を断る

 インターラーケンに着いたのは5時を過ぎていたがまだ明るかった。サボイ・ホテルに落ち着いたところで僕はすぐに屋上に上がってみたが、山には夕暮れの雲がかかって、残念ながらユングフラウはちょっと顔をのぞかせただけだった。
 しばらくしたらその屋上へ見知らぬ男が上がってきた。地元のサッカー・クラブの役員とやらで「あす試合をやらないか」という。滅相もない。千載一遇のユングフラウがすっ飛んでしまうではないか。彼はなかなか粘ったが僕は断固として断った。初めは竹腰さんに会って申込んだらしいが、僕に聞けといわれて屋上へ来たとみると竹腰さんもやる気は起こらなかったのであろう。とにかく竹腰さんが「よし、やろう」なんて、うっかり引き受けられなくて助かった
 サッカーチームがサッカーの試合を断って山登りを企てていようとは東京の協会では想像もしなかったろうが、わがサッカー選手の将来のためにはサッカーの試合よりも、アルプスの方が遥かに価値があるに違いないと僕は勝手ながら決めていた。たとえサッカーに直接の効き目はなくても、日本とはスケールの違う雄大な本場アルプスの大自然は必ず選手の心に感銘を与えプラスになって残るだろう、と僕は山が好きだったからそう信じていた。
 彼は諦めて帰った。その夜はヨーデルを聞いたり農村舞踊を見て楽しんだ。


登山電車

 翌6日の日曜日は荷物をホテルに置いてユングフラウへ向かった。旅行社の人に案内されてインターラーケン東駅まで歩き、そこからベルナー・オーバーラント鉄道に乗った。もう観光シーズンの盛りを過ぎていたので、ドイツ人らしいおばちゃんの団体が乗り込んできたぐらいで刺して混雑もしなかった。こういうときはどこも同じか、おばちゃんたちは窓際の席に座ろうと先を争っていたが、歌を合唱したりして楽しそうだった。
 標高567メートルの東駅を8時20分に出発した2輌連結の電車は、ベルナー・オーバーラント・アルプスの山並に向かってゆっくりと南へ走りだした。
 ツヴァイリュッチネンで東のグリンデルヴァルトへの線と分かれてラウターブルンネンの谷へ入って行った。U字型の谷の底を走る。標高796メートルのラウターブルンネンの村の右側の絶壁から滝が落ちていた。高さ300メートルでヨーロッパ第2のシュタウプバッハの滝というそうだ。この深い谷間ではもう9時なのに薄いガスが走って、まだ朝が明け切らない感じだった。
 そこから折り返すように電車は左へ大きく方向を変えて斜面をはい上がってヴェンゲン(1,275メートル)にくると、からっと明るく晴れ渡った。駅前では楽隊や民族衣装の娘たちが歓迎してくれる。

 電車はアルプ地帯をジグザグに縫ってぐんぐん登る。ガランゴロンと牛の鈴がのどかに響いてくる。そこを登り切ると、オーバーラント三山のアイガー、メンヒ、ユングフラウと並んだ4,000メートルの山塊が、ヒマラヤに及ばなくても日本の山にはない壮大なボリュウムの迫力でアルプと森の緑のうえに、紫紺をおびた岩壁と純白の氷雪を重ねた三層の美しさとともに、急に大きく目の前に迫ってきた。
 間もなくクライネシャイデックだ。グリンデルヴァルトからの線もここへ登ってきて再び落ちあう。ここには駅のほかに登山者のための山小屋風のホテルが2、3軒あるだけで、日本の観光地につきもののお土産物を並べて客寄せをする店などは一切ない。そこが観光に対する日本とスイスのセンスの差というか、自然の美しさを気傷つけないで楽しませてくれる。ホテルの背後にのしかかるようなアイガーの北壁もさることながら、2つの懸垂氷河を両脇に抱えたような右手のユングフラウのボリュウムはまた格別だ。
 ここでユングフラウ鉄道に乗り換えると、やや小型のアプト式登山電車はしばらくアルプの中を登り、2,320メートルの地点を過ぎるとガターンゴトンとアイガーの岩のどてっ腹へもぐり込んだ。


ユングフラウヨッホ

 そこから標高差にして約1,300メートル、約7キロ余のトンネルがアイガーとメンヒの胴体のなかをぶち抜いて、3,454メートルのユングフラウヨッホに達する。走行時間約45分、一度も外を走ることなく終点のユングフラウヨッホ駅も三腹の地中にある。インターラーケンから2時間7分、ケーブルカーではない登山鉄道の到着地点としてはヨーロッパ最高とも世界最高とも聞いたが、とにかくその完成が1912年だから明治から大正へ移った年とは驚きだった。
 外に出たらユングフラウヨッホと称するユングフラウとメンヒの間の鞍部である。相当に広い雪の広場である。そこから南を眺めるとヨーロッパ最長のアレッチ氷河が山並みの彼方へ流れる。ゆるやかで大きな雪原の感じだ。その右側の最も手前にあるのが4,158メートルのユングフラウで、普通の登山者はここから登るらしい。
 電車の終点があるあたりの山腹の断崖絶壁に3つの建物がへばりつくように建っている。50人近く泊れる登山者用の山小屋と百人近く収容できる観光客用の山小屋と国際高山研究所がよくもこんなところにと思うようなところにある。このホテルに1日でも泊ってアルプスの気分に浸れれば申し分ないのだが、その日のうちにルツェルンまで行かねばならない。
 そこで岩の上に弁当を開いて山の気分を味わうことにした。サボイ・ホテルから持ってきた紙袋の中にはサンドウィッチと果物などがはいっていた。これも初めて食う西洋の弁当である。普通の服装でこんなに時間もかけず汗もかかずにアルプスの山上で弁当を開いて寛げようとは、誰も予想していなかったに違いない。

 気分爽快になって雪の斜面を駆けおりて息切れした者がいた。前に書いたように僕が期待したプラスが選手に果たして残ったかどうかは疑問としても、ヨーロッパに来てすでに40日を超える日程を試合と見学と招待に追い立てられた落ち着かない気分で相当くたびれていた一行にとって、絶好のレクリエーションとなったことは確かだった。次のユーゴ訪問にそれがうかがえた。帰りはクライネシャイデックでもときた線とは反対方向のグリンデルヴァルトを経て下り、ホテルで荷物を受け取り、7時近くの汽車でルツェルンへ向かった。例によって、我々の席はリザーブされていたが、日曜の夕方のせいだろう、汽車はわりあい混んでいた。
 約2時間、9時前にルツェルンに着き、ホテル・ドゥ・ラ・ペーに泊り、そこでこのスイス旅行のプランを組んでもらったFさんに会ってお礼をいった。世話役を買ってでたが、Fさんの手配のおかげで実際にはほとんど世話に働くこともなく楽しめた。サッカーだけでなく大いに見聞を広めよ、とヨーロッパはやってきて、その文化の香りをかぐのもそうであれば、アルプスを訪ねるのも見聞を広める一つである。


ルツェルン

 背景に1,500から2,000メートルを超える山を配した美しい風景のルツェルン湖から、ロイス川の流れ出るほとりのルツェルンの町は、町の歴史画を掲げた屋根つき渡り廊下のようなカペル橋など中世の情緒を残すしっとりと落ち着いた町で、1泊はしたもののゆっくり眠った翌日は出発までに2時間ほどのゆとりしかなかったのはまた大変だった。
 カペル橋を見たあと、僕は大急ぎで登山靴を買いに行った。時計には興味がなかったので、日本でビブラム底の登山靴がようやく話題になりかけていた頃で、それをスイスで買うつもりだったが、あまり急いだのでやや大きすぎて今もほとんど使わないで家にある。
 午後1時頃この町と別れ、汽車で約1時間あまりのチューリヒからベオグラードへ飛ぶことになっていた。空港にユーゴの学生連盟の役員が迎えにきてくれた。特別機を用意しているという。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年12月10日号)

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