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ベオグラードの印象 ユーゴ その1


臨時特別機の計らい

 我々を招待してくれたユーゴ側の団体は多分スポーツ連合だろうが、その事務を代行したというか実際に我々と接触して世話をしてくれたのはユーゴ学生連合で、そこからドルトムントに来ていた学生委員と交渉して最終的にこのユーゴ行は決定した。日本を出発する前から駐ユーゴの日本公使館を通じて一応話は進めていたのだが、チューリヒからの往復汽車賃が高すぎるとかでユーゴ側はその捻出に苦労していると聞いたまま日本を出たのに、どういう理由でこうなったのか、わざわざYAT(ユーゴスラビア航空)の臨時特別機をチューリヒまで出迎えによこしてくれたのは大変な計らいだったと思う。
 7日(月)の午後3時40分頃チューリヒを飛び立って、しばらく東北へ進路をとりボーデン湖を横切りミュンヘン付近で機首を東南に転じた。ザルツブルクの上空を飛んでいるとき、スチュワーデスはこの南にヒトラーの山荘で有名なベルヒテスガーデンがあるとわざわざ教えてくれた。そのときは聞き流していたがあとになって新しいユーゴがナチスとの戦いの中から生まれたことに気づいてスチュワーデスの気持ちもまた理解できた。
 オーストリアのアルプスを越えるといよいよ初めて訪れる共産圏の国ユーゴスラビアだ。7時40分頃ベオグラードに着いた。東欧共産圏で独りわが道を往くユーゴが経済的に最も苦しい頃だった。空港に着いたラ裸電球の暗い部屋でしばらく待たされた。それまでどこの国でも国際空港は明るくてにぎやかな場所だったが、ここは暗くてひっそりしていた。空港から旧市内へ向かう沿道も、街の中も、ホテルの中も電力節約らしくすべてが暗かった。


公務員のサービス

 我々のホテルは軍人がよく利用するホテルということで、建物は相当大きいが壁面のチトー大統領の肖像写真が目につくばかりで殺風景だった。西欧並みの一流ホテルとみられるのはマジェスチックとかモスクワぐらいでごく少なく、西欧や米国からの客が利用するのはほとんどマジェスチックだと聞いた。
 部屋にはバスがついていたが、1週間近い滞在中ついに湯が出なかった。これも節約かとも思ったが、ユーゴでは夏場はほとんど湯を使わない習慣だとも聞いた。選手諸君には試合のあとで湯を浴びるチャンスがあったけれども役員3人はついに最後まで湯に恵まれなかった。
 それはさておき、西欧的自由経済の国からやってくると、ホテル従業員のサービスというか接客ぶりがどうも気になった。まず食堂でのこと、テーブル数の割にウエイターがきわめて少人数なのだ。だからおのずと待たされがちで、食卓についてから初めの皿が運ばれるまでに早くて半時間はかかるのが普通だった。
 それでも客は文句をいわないようだ。サービス業に多くの労働力を投入するに及ばないということなのか、とにかく日本せっかち族はいらいらする。食卓のうえにはあらかじめパンがうず高く豊富に積み上げてあるので、待ちくたびれるとそれを食って待ったりもした。
 フロントの近くでたまたま見聞きしたのだが、フロント係が客を断っているそっけないというよりむしろ横柄ともいえる態度は、自由競争の国ではたちまち営業成績が下落すること請合いというありさまで驚いた。

 もう一つは夜のロビーでのこと。ブドウ酒など注文し数人で話をしていたら、バーのボーイがノーネクタイのカッターシャツに、背広の上衣を腕を通さないまま肩にひっかけて我々の近くにやってきて立ったり坐ったりする。初めての日本人客が珍しさにやってきたのかと考えたがどうも違うらしい。だが間もなく実はもう勤務時間を過ぎたから早く金を払ってほしいというデモンストレーションであると判明したので代金を支払ったら、彼はにっこり「おやすみ」といって帰って行った。まだ8時半頃だった。
 およそ接客サービスということに関しては日本や西欧とは大いに趣を異にする。この違い、社会主義体制の結果という人もいたが、僕はお役人仕事はいずこも同じだというふうに理解した。ここではホテルは公営でポーターもウエイターもフロントのマネージャーもすべて公務員でサービスを競っても損得はないからである。


ドイツと戦った誇り

 ユーゴは6つの共和国で構成する連邦制で4つの言葉が使われ、社会主義だが信教の自由はあってクロアチア地方はカトリック、セルビア地方はギリシャ正教、ボスニア地方は回教と分かれ、さらに地域的には対外国関係の歴史の違いや文化的格差も風俗の違いもあって、まことに掴みにくい国柄である。
 そのうえ当時は数年前にソ連の傘下を離れ、東欧社会主義国の間ではただ一つ西欧側へ門戸を開放して外交面では独自の道を歩くことになったが、その道もまだしっかりと固まるに至らないというときで、きわめて厳しい状態にあったのである。夜の空港や街の暗さ、服装の質素さ、自動車が旧式で数少ないこと、新ベオグラードの建築中止などはすべてそれを物語っていた。
 だが我々が接触した学生――彼らは学生連合の委員だが――は近い将来のユーゴで活躍する青年にふさわしい頼もしさを感じさせた。明るくて礼儀正しい態度、思慮深いが決断と責任感を感じさせる話ぶりなど、毅然とした青年たちばかりだった。
 そうして彼らに接しているうちに、この雑多な要素を抱えながらもソ連の意のままにはならないで苦しい国造りに耐えているのは、ナチス・ドイツの支配下から自力で、最後にドイツ軍を被って解放を獲得したパルチザンの根性と誇りではなかろうかと考えた。ドナウ河とサバ河の合流点を見下すカレメグダン公園に陳列してあった撃墜したドイツの戦闘機や捕獲した戦車などを説明したとき、またペオグラード郊外のアバラの丘の無名戦士の墓に詣でた際に、その近くでアフリカから逃げ帰るドイツ軍2軍個師団を撃滅した戦闘の話をしたときの彼らに感じた僕の印象だった。
 それはいわゆるレジスタンスといわれる戦いを経験した国民だけが持ちうる誇りだろうとも思った。


街の人気はやはりサッカー

 ベオグラードに着いた翌々日の9日にサッカー試合を見物した。同国1部リーグの赤い星対スパルタクでやはり3万から4万の観衆がスタンドを埋めていた。我々はほかのスケジュールの都合で、スタンドに入ったときにはすでに試合が始まっていたし、また終わらないうちに引き揚げねばならなかったので、落ち着いてじっくり観戦できなかった。だからユーゴのサッカーを詳しく語れない。
 しかし、そのわずかな時間のうちにも強い印象として残っているのは「ユーゴのサッカーは思いのほかに技巧的だ」ということだ。それはそののち日本にきたチームやテレビやその他諸々の情報から得たものと違ってはいなかった。
 ベオグラードの街頭は夜の8時近くになると大いに雑踏する。試合を見た夜、僕たちも街に出た。テレジエという盛り場あたりにきたら、腕を組むカップル、3人、4人と並んでまるで行進するかのような若者、若者だけでなく中年も老人もいる。大変な人の波である。
 この散歩はユーゴ人の習慣なのだという。また住宅難で住居に余裕がないのが原因で、夕食が終わると人々は町へ出て寛ぐのだとも聞いた。またこの一斉散歩で若者はおムコさんやおヨメさん候補を探せるのだともいう。

 その人波を分けて歩いていると、ある街角で人だかりに会った。野次馬根性を発揮してのぞき込むと、一人の男が何やら大声で周囲に何かを説明しているようだ。するとまた周囲からワイワイ声がかかる。もちろん何のことかすぐには分からなかったが、そのうちにどうもサッカーのことらしいと気づく。連れの公使館の人に聞いたら、その通りサッカーだという。
 つまりその日のサッカーの試合を見てきた者を取りかこんで、見に行けなかった市民が勝負の結果を知り、試合の模様を聞いているのである。自然に生まれたサッカーニュースの速報屋というところだ。そうした人だかりはいつもあちこちに見られるという。
 このユーゴスラビアでも一番人気のあるスポーツはいずこも同じサッカーだった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年12月25日号)

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