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存分に戦って好ゲーム ユーゴ その2


好感を持って招待された

 はじめは汽車賃で引っかかっていたのに、臨時特別機まで出してくれた計らいの理由を尋ねたわけではないけれども、日本の学生サッカー・チームの訪問をユーゴが相当な好感で迎えてくれたのはほぼ間違いなかった。なにほどかの好奇心も働いていたかも知れないが。サッカーの立場からみて、両国の間には大きな隔たりがあって、ドルトムントの優勝者ユーゴが無理をして招待してくれるほどに、我々がユーゴ学生に役立つとは思われなかったのに、経済的に苦しい折りのユーゴはあえて招いてくれたのである。
 ユーゴ人にとって日本人が珍しかったのは事実だろう。日本大使館開設以来、我々以前にベオグラードを訪れた日本人はまだわずかに16人だと聞いた。町に出ると一度とならず珍しげに話しかけられたし、「日本人と話をするのは初めてだ」と買い物をしようとした店の中までついてくる人や、ホテルの窓からのぞく人もいた。
 その数ヶ月前に、砂原美智子さんがベオグラードにきて国立オペラ劇場で公演したときは、聴衆が会場に入り切れず、負傷者も出る騒ぎとなる大変な人気で、場外に拡声器を急いで付けて溢れた人々に聞いてもらったという。

 公使館のある人によると、当時はソ連と不和で米国や西欧に経済援助や文化交流を求めていたところで、日本へも通商使節団や文化使節団を送ったりしたが、もし同じ条件だったら日本との取引を望んでいたそうだ。米国や英国に資本的支配を懸念し、西ドイツには政治的な危惧を招くのに、日本にはそうした心配がなかったからだろうとのことだ。ところが、日本が逆にユーゴの国際的立場に危惧をもって返事が遅れているうちに、火力発電所建設のいい商談を逃してしまったそうだ。西欧とは違って、民族的あるいは文化史的に、東方への親近感のようなものがあるのではなかろうかという人もいた。
 ともあれ、我々の到着を報じた同国最大の新聞、ポリティカの記事は次のような書き出しだった。
「わが国のお客として日本から初めてのスポーツマンがベオグラードにやってきた。その客はフットボールの学生代表選手で、10日の木曜日に我がユーゴ学生チームと試合を行なう。日本選手とユーゴ選手は、ドルトムント大会ですでに友達となっており、ユーゴ学生が金メダルを獲得したときに、真っ先に祝福してくれたのは、他でもない日本の学生選手だったのである」


パルチザン・スタジアム

 試合はパルチザン・スタジアムという立派な陸上と併用の競技場で行なわれた。その所有は陸軍だが、パルチザン・スポーツ・クラブの本拠になっていて、収容力は6万人。当時ユーゴただ一つの夜間照明がある同国屈指のものだった。
 スタンドの下には、各種のトレーニング場のほかに各競技別の更衣室などが並んでいた。サッカーはAチーム、Bチームなど各クラスごとの更衣室のほかにビジター用もあり、シャワー室と風呂場にも広いスペースを使っていた。マッサージ用の電気風呂は、10数人が入れる湯舟で、弱い電流を通じて筋肉の疲れをとるとかで珍しかった。
 スタンドの下を利用してその他には、ビジターや合宿練習用の小ぎれいな宿泊施設、クラブ会員用に、ゆったりと坐れる椅子の談話、読書、会議の各部屋、それにレストラン(白いテーブル・クロスの食卓、献立の揃った料理、ウエイターの服装などひとかどのレストランである)などがあり、レストランの屋外は庭園喫茶風に仕立て、野外ステージもあって、夜はちょっとした音楽演奏やダンスを楽しめる仕組みになっていた。
 また隣接して練習用サッカー場が2、3面あった。アンツーカのようにうかがえたが、ペンデル・ボールの柱が10本ばかり並んでいた。

 競技のための施設だけでなく、このような色々な付属設備を見ると、共産圏の国とはいっても、日本とは違って西欧諸国と同じような、スポーツ観がうかがえるのだった。
 10日、日本学生として初めて経験をする夜間試合で行なわれたが、日本チームを紹介した前日の新聞のなかで、ポリティカ紙は、「この試合は非常に面白いものになるだろう。なぜならば日本選手はスピードがあり、いつでも自己犠牲的なプレーをする用意があるからだ」と書き、ボルボ紙は、「ドルトムントの日本のスポーツマンは、全観客にとってまさに新しい発見だった。今回来訪した日本チームは、その大会の初日のドイツとの試合で初めて見たのだが、そのスピードとたゆまぬラッシュとフェア・プレーとは、試合の最初の瞬間から好印象を与えた。金メダルの我がユーゴ学生は、明日彼らと交歓試合をするが、好試合を期待している。速くて忠実な日本チームに勝つには、ユーゴ学生も技と力のすべてを使わねばなるまい」と、誉めてくれた。


貴重な徳弘の得点

 もちろん勝負という点では、彼らは勝利を疑ってはいなかったようだ。僕も勝てるとは決して考えていなかった。しかしドルトムントのあとは、全力を出しきって心底から晴れ晴れするような試合をしていなかったので、遠征最後のこの試合で、ひとつ会心のゲームをやらせてやりたいと僕は考えていた。そこで試合前の技術的な指示はごく簡略にして「今日は相手に不足はないし、遠征を締めくくる最後の試合だから、心残りなく思うがまま暴れてこい」とのびのびしたプレーを願ってフィールドへ送り出した。
 立ち上がりの3分に早くも先取点と取られたが、39分には、徳弘の得点で同点にした。そのまま前半を終わるかという44分速攻でまたリードを与えてしまった。やはり実力の差は仕方なく、後半も9分に追加点を許して1−3で敗れたのである。しかし観衆も大いに拍手してくれたように、僕は実によい試合をやったといまでも思っている。ことにそれまでにない、自由に生き生きと積極的な試合をしたのが嬉しかった。

 タイにした点は、CF木村が快足を飛ばして右へ大きく動いて、ゴール・ライン近くから鋭い角度で中央へ強く低いパスを送ると、LW徳弘がそれにうまく合わせて、ゴール正面へ大胆に走りこみざまに、12〜13メートルのシュートを右スミへ低く蹴り込んだ。スピードといい思い切った大きな動きといい申し分なかった。
 前半1−2とされた点は、左サイドの背後を突いたパスで逆襲され、RWスタンコビッチが受けて、右45度の方向からゴールへドリブルで向かった。追っかけるLB平木が、斜め左後方からスライディング・タックルに入ろうとした寸前、ちょうどGK村岡が前進しかけた動きの逆を素早く狙ってペナルティ・エリアの角あたりから右足で放ったスタンコビッチのシュートは、逆サイドの上のスミへ見事に決まった。彼は日本選手とさほど違わない身長だが、バランスの良い軽やかな身のこなしでドルトムントでもうまいと思ったが、このときのドリブルのコースとタイミングの良さは強く印象に残った。あと1分でハーフタイムという時のこの1点はまことに手痛かった。

 翌日のポリティカ紙は「テクニックで日本をしのぐユーゴが勝利を収めた。だが日本の選手は、ユーゴの選手よりも小さいのにもかかわらず、なかなかスピードがあって、いつでもプレーへの準備ができている。そうして彼らは忠実で休みなく動き回り、あらゆるボールに対してよく戦った」と書いた。
 負けたけれども後味はよく、さっぱりした気分で翌11日夜行列車でベオグラードに別れて再びローマへ向かった。国境を越えた長距離汽車旅行は初めてだった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1976年1月10日号)

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