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再びローマを訪ねて

イタリアのファン

 11日の夜ベオグラードを立った列車はサグレブを経て、当時帰属問題がまだ解決していなかったトリエステを通って、翌日の午後にベニスでローマ行に乗り換えた。乗り換え待ちの2時間余りで少し見物ができた。そしてローマに着いたのはさらに翌13日の朝だったろうか。ちょうど日曜日なので、夕方のサッカー試合を見物できるように、PALが手配してくれていた。
 試合は完成して間もないフォロ・イタリコのオリンピック・スタジアムで4時半から行なわれた。1部リーグのローマ対ジェノアである。我々は貸切りバスで出かけた。30分前だったが、すでに押し寄せた自動車、オートバイやイタリアが本場のスクーターなどの大群に、バスは一キロほど手前で車止めにあった。幸いに案内人が盛んに掛け合って、かろうじてスタジアム近くまでたどり着いた。

 スタンドに入ったらキックオフが迫っていて大観衆はわき返っていた。収容力は10万、普通は8万だがこの日は6万5,000ほどだと聞いた。メイン・スタンド背後の丘の上からも数千の無料客が見物していた。フィールドからは200メートル以上もあろうから、たぶん試合は小さく見えるに違いない。
 さすがにラテン系だ。観衆はスウェーデンや英国よりも一段とすごい熱狂ぶりだった。男は新聞紙を追って作った日除け帽子を、女はコカコーラらしい清涼飲料の赤いひさしだけの宣伝帽をかぶって、ドリブル、シュートとまるでフィールドの一挙一動に大騒ぎ。地元のローマがゴールを挙げたときなどは、男は拳を突き上げて躍り上がり、若い娘も負けじと立ち上がり奇声を発して選手の名を叫び、前後左右みんな口角泡を飛ばして喋りまくり、ラッパが鳴り、その賑やかさといったら、試合再開のホイッスルも聞こえなかった。ローマが勝って試合が終わると、スタンドでも丘の上でも新聞紙に火をつけて振り回している。こんな連中が興奮したら日本の野球の騒動ぐらいでは到底おさまるまいと思われた。
 だから施設のほうもそれに備えてスタンドとグラウンドの間に深さ2メートルばかり、幅数メートルのコンクリート壕が掘ってあって、さらに壁には有刺鉄線を張りめぐらし水を貯めることもできるようになっていた。これではグラウンドに乱入することはできまい。日本のプロ野球もファンの良識に訴えるなどとばかげたことをいわないで、これを見習えばよい。備えあれば憂いなしだ。警官隊だけでなく軍隊もたくさんいて、試合が終了するや彼らがあらゆる出口を一斉に開くと、数万の観衆は10分ほどでほとんどスタンドから出ていた。

 このオリンピック・スタジアムのすぐそばにマルミと呼ぶスタジアムがあった。やはり陸上のトラックの中にサッカーにも使うらしいフィールドがあったが、グラウンドのほかは土手を石で固めた10段足らずのスタンドがあるだけできわめて簡単な施設である。だがスタンドの最後段は大理石の立派な彫刻が六十ばかり競技場を取り囲むように並んでいた。先のオリンピック・スタジアム同様にムッソリーニ時代に着工され、大理石の彫刻は全国から集められた各種競技者の裸像で、いわばムッソリーニへの献上物だそうだ。またグラウンドの造りも一風変わってトラックは縦に細長く走り、古代ローマの競技場を思わせるところは、ムッソリーニのローマ帝国時代への懐古趣味かも知れない。


オペラ見物

 ローマはヨーロッパ遠征最後の滞在地だが、また二度目の訪問でもあったからあれこれと見物できた。
 そうしてオペラの見物までできた。だいたい音楽や芝居に弱い僕には、オペラは観るといえばよいのか聴くといえばよいのか判然としないのであるが、いってみればお上りさんだから見物にしておこう。劇場はエリゼオといって、出し物は「ラ・ボエーム」だった。一流ではないが、若手の有望株が歌う劇場だと聞いた。
およそ日本で僕がそれまでに経験した限りでは、クラシックの音楽会というところは、客はまるで天の啓示に聞き入るかのようにひたすら神妙に耳を傾け、しわぶきをしてはシーッとしかられ、椅子が固くて尻を動かすにも気がねしなくてはならない窮屈なところで、拍手は最後にするものだと思っていたので、そのつもりで神妙に聴いていた。ところが突然拍手が起こり掛け声らしきものが叫ばれて舞台の演技がとまったので驚いた。歌い手は舞台の前面に出てきて盛んにお辞儀をする。拍手や掛け声が一層盛んになる。そうしてお辞儀を終わった歌い手はまたもとの位置にもどると思ったら、それより少し前の場面の位置について、先刻歌った歌をまた歌いだしたのである。
 つまりそれは見せ場というか、さわりだというか、そこのアンコールだったのである。オペラにもそうしたアンコールがあるということ、掛け声もかかるということを初めて知って、さすがオペラの国だと思った。声量が豊かで快く、眠くはならなかったけれども、どれほどに上手なのか僕にはもちろんわからなかった。

 それにしてもオペラ見物がなぜ実現したか。帰りをPAL機に乗るかどうかをロンドンで決めるときに、その代わりに3日間の滞在の世話をサービスさせようということになり、第一に出した条件がサッカー見物だった。役員3人にはもちろん異存はない。次に出した条件がオペラで、松丸さんの提案だった。竹腰さんも僕も考えつかないアイデアだったが、イタリアはオペラの国だからそれも面白かろうと賛成した。そうして余った時間は往路に見残したところをさらに見物させろ、と竹腰さんが当たってみたら、PALはみんなOKした。往きのローマ滞在2日間といい、帰りもホテルだけでなくこんなスケジュールまですべてをサービスさせた竹腰さんのPAL操縦はなかなか見事だった。  とにかくオペラ見物までしたサッカー遠征はそのあとにもないだろう。16日ローマを飛び立ってヨーロッパを離れた機中で考えてみたら、イタリア、西ドイツ、スウェーデン、フランス。ベルギー、イギリス、スイス、ユーゴスラビアと八カ国を回った。サッカーばかりでなく、都市を歩き、田舎を走り、山にも登り、工場、炭坑を見学し名所古蹟を訪れ、ときには芸術に接し、学生と語り、庶民の家庭にまではいって、大いに見聞を広めたはずである。少し貪欲すぎて疲れ、かえって印象の薄いところもあったが、こうした経験がはたして生きるかどうか。サッカーに関する限りは何がなんでも生かさねばならないのだが、観てきたサッカーはあまりにも遠いところにあるような気もする。まず何から始めるべきかそれが問題だ……などと思いをめぐらすうちに眠ってしまった。

 明けて17日はマニラに1泊したが、外出はまだできなかった。ホテルではバンドが、軍歌も含めて日本の歌などを盛んに演奏してサービスしてくれたが、彼らも日本軍がわがもの顔に占領していたころを思い出さないで演奏できはしまいと想像すると、決して楽しいものではなかった。早く帰ることにしよう。  9月18日、我々は56日ぶりの羽田へ向かった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1976年1月25日号)

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