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長い歴史とトヨタの先見をバックに花開いたピクシーと仲間たち。次は世界のビッグクラブへ
サポーターの皆さん、クラブの皆さん、優勝おめでとう。
杉本恵太の前のスペースに送り込まれた(左サイドからの)長いパスに喝采し、杉本のいいタイミングのクロスと、それに飛び込んだ玉田圭司のヘディングにテレビの前で声を上げた。ピクシーの胴上げは感動的だった。タイムアップの笛のとき、楢崎正剛がクローズアップされ、神戸での試合が引き分けだったことを確かめる姿が映し出された。このシーンは生涯忘れることはないだろう。
現場ではなくテレビではあったが、生中継だったために、グランパスの“その瞬間”に立ち合うことができたのは、とても幸いだった。その喜びに浸りながら、Jリーグ18年の努力の積み重ねと、さらにそれ以前からの名古屋、中京の先人たちに思いを馳せた。
ピクシーの骨太のチーム
ドラガン・ストイコビッチの監督3年目の今年は、優勝を期待する声が高まった。
CDFに田中マルクス闘莉王が加わったのが、その理由だった。GKに楢崎、CFにケネディがいるチームに闘莉王がCDFで入り、チームの芯が固まったからだった。もう一人のCDFの増川隆洋は191センチの長身だから、闘莉王(185センチ)とともに、Jのチームでも珍しい2人の185センチ以上の日本人CDFを持つチームとなったのだ。
闘莉王は戦う姿勢を表面に出すことでチームの中でも大きな影響力を持ち、守りの強さとともに攻撃のセンスの高い選手としても知られていた。グランパスにとってはトーレス(ブラジル、1995〜99年在籍)以来の大型優秀DFの補強だった。
ストイコビッチは選手時代に、その高い技巧と美しいフォームで知られていたが、同時に“勝ち”にこだわる強い意欲の持主だった。東西のオールスター戦という、いわばスターの華やかさが強調される試合で、西軍で彼の手抜きのない勝ちにこだわるプレーを何度も見たファンも多いはず。監督、ピクシーも勝ちにこだわり、まず“勝てる”チームの骨格づくりを考え、Jリーグの中で骨太のチームを育てたところが面白い。
若いときに感情の起伏の大きい彼がアーセン・ベンゲル監督との出会いで、常に安定した力を発揮するようになった話はよく知られている。監督の彼もまた、玉田をはじめとする優れたプレーヤーの力を引き出しているようだ。
J発足時からの先見と継続
Jリーグがスタートするとき、株式会社名古屋グランパスエイトの発足パーティーがあった。その会で顔を合わせた長沼健さん(故人、第8代日本サッカー協会会長)が私に、「豊田章一郎さん(当時のトヨタ自動車社長)がチーム名はトヨタでなく名古屋にするといって下さったのは、とても心強かった」といった。ヨーロッパにならって(というより世界のビッグスポーツの例として)ホームタウンの名を冠することにしていたのに対して異論を唱えるところもあったからだ。そうした“親会社派”に対して天下のトヨタが、地域のクラブというリーグ側の提唱にいち早く理解を示したのが、大きく影響したというのだ。
早くからトヨタカップという欧州と南米のナンバーワンチームの対戦のスポンサーとなり、今の「FIFA Club World Cup Presented by TOYOTA」に至る世界のビッグイベントに関わってきた企業の懐の大きさ――といえばそれまでだが、優秀な企業のトップの人たちは表面はどうであれ、“負けず嫌い”であることはよく見聞きする。このクラブの第2代社長であり、長くトヨタの要職にあった岩崎正視さんをはじめ、多くの先輩たちが成績の上がらないサッカーのプロフェッショナルたちを長い目で見続けてきたことに、私は敬服するとともに、改めておめでとうを申し上げたい。
戦前の中京商業(現・中京大中京高)や今の中日ドラゴンズの活躍で、この地の野球の盛んなことは知られているが、サッカーもまた90年の日本サッカー協会(1921年創立)の歴史の初期の段階から重要な役割を占めている。
日本代表が初めて東アジアの1位となったのは1930年の第9回極東大会で、代表の中心は東京帝大(現・東京大学)の選手だったが、その東大のサッカー部のスタートは大正年間に名古屋の第八高等学校(現・名古屋大)の出身者が集まって試合をしたところからである。
このことは、いずれ機会をみて述べたいが、古い歴史の上に花開いた今度の優勝で、グランパスはこれから世界のビッグクラブへの道を歩み、名古屋、中京はアジアと世界のサッカー中心地へ進んでいくはずだ。
その大きなステップのときに居合わせたのは、まことに幸福――ありがとう。
(月刊グラン2011年1月号 No.202)