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84年前に中華民国から1ゴール。兵庫、関西の協会長、神戸FC会長として少年育成に尽くした明治生まれのリーダー 玉井操


日本代表初勝利に貢献

 新年おめでとうございます。
 2011年――今年もまた、名古屋グランパスとサポーターの皆さんに輝かしい年でありますように――。

 さて、今回の登場は関西蹴球協会(現・関西サッカー協会)の会長であった玉井操さん(1903年〜78年、第2回日本サッカー殿堂入り)。
 1903年は明治36年、それも12月16日生まれだから、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の時代に合わせれば、まさに日露開戦(1904年2月8日)直前の誕生――。
 1924年(大正13年)生まれの私より21歳年長の玉井さんは、1931年(昭和6年)、私が小学校に入学した年にはすでに関西蹴球協会兵庫支部長であり、亡くなるまで兵庫県協会会長、関西協会会長でもあり、日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)の副会長も務めたから、私には玉井さんといえばまず会長のイメージで、サッカーの集まりでメインテーブルは関西では玉井さんと決まっていた。

 もちろん“会長”さんにも若い時代はあった。兵庫県生まれだが、サッカーは東京で暮らした明治学院中学部の頃から。この学校は1918年の第1回関東蹴球大会にも出場し、1921年のJFA創立のときの初年度会員の一つだった。
 1922年に早稲田第一高等学院(早高)に入学、1学年上の鈴木重義がつくったア式蹴球部に入る。翌年の1923年に第1回全国高等学校選手権、いわゆるインターハイが東京帝大(東大)の提唱、主催によって始まり、これに参加した早高が優勝した。
 この優勝にはビルマ人留学生、チョウ・ディンの指導が大きくプラスした。チョウ・ディンによる全国巡回コーチによって、日本サッカーが大きくレベルアップし、早稲田がそのトップチームの一つになったことは、日本サッカー史の上での画期的な出来事の一つだが、玉井さんも早高入学早々にその大きな輪の中に入り、サッカーに一層打ち込むようになった。1924年の第2回インターハイにも優勝し、また、この年にスタートした東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)にも早稲田が優勝、玉井さんはインサイドFW(攻撃的MF)として働いた。
 早大での玉井さんは1927年に日本代表として国際舞台に立つチャンスが巡ってくる。第8回極東大会の代表を決めるためにJFAは国内予選を開催し、早大WMW(早大の学生、OBの混合チーム)が優勝して、代表権を獲得したのだった。
 大会の第1戦の対中華民国は1−5で敗れ、第2戦の対フィリピンは2−1で勝った。フィリピン戦は日本サッカーにとっての国際試合での初勝利だったが、対中華民国戦でも得点差は開いたが、日本流の組織サッカーの質をもう一段高めれば、互角以上に戦えることの将来への展望が開けた。このとき玉井さんは2試合に出場、対中華民国の1ゴールを決めている。


“昭和2年組”の功績

 玉井さんは1928年(昭和3年)に早大を卒業し社会人となり、1931年には関西協会の兵庫支部長となる。1930年の極東大会で成果を挙げたJFAは、次の目標であるオリンピック参加に向かうのだが、そうした日本サッカーの中で、玉井さんは地方組織のトップになって、サッカーの国内への浸透を図る。
 私が玉井さんと直接言葉を交わすようになったのは、東京オリンピックの後、神戸少年サッカースクールや神戸FCの創設やその運営に関わるようになってからだが、玉井商船の社長であり、神戸の財界の重鎮であるこの人の気さくで人の意見に十分耳を傾ける姿をいつも驚きをもって見ていたものだ。私たちの提唱した企画は、世界の常識であっても日本では非常識でもあり、年齢別の登録やクラブでの少年育成について長老たちの賛同を得るのは易しくはなかったが、玉井さんの後押しは大きな力だった。また、練習中の事故防止やその保険制度などといった細かい話もしっかり理解していたのにも感嘆したことを覚えている。もちろん、それは私の先輩であり、偉大なリーダーであった加藤正信ドクター(1912〜90年)を信頼し、先輩として温かい目でその情熱と行動を支えてくれていたことにもよるのだが……。

 1978年に亡くなってしばらく後、立派な葬儀が神戸商工会議所などの経済団体の手で行なわれた。そのときに、玉井さんの元気なときのテレビ録画が場内に映し出されたが、話の内容のほとんどがサッカーであり、少年育成であった。その画面を見ながら私は、改めて“昭和5年組”よりまだ古い“昭和2年組”のサッカー界での功績をかみしめたのだった。


(月刊グラン2011年2月号 No.203)

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