賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >サッカーの何を見たか その5

サッカーの何を見たか その5


全員攻撃、全員守備

 敵味方ともWMフォーメーションでがっちり噛み合った場合、相手のバックスの動きを封じる一番手は当然にフォワードということになる。つまり前号でも触れたように、攻撃がバックスで始まれば、守備はフォワードで始まるということだ。
 ところが当時の日本のフォワードは守備が下手だった。いや下手というよりもむしろ守備の考えが薄かった。攻撃はフォワード、守備はバックスというごく古い考えからまだ脱しきっていなかったとも言えるだろう。だからフルバックがドリブルしたりパスを交わしながら積極的に攻撃へ参加することはなく、せいぜい攻撃の仕事はハーフバックから前方にあると何となく受け取られていた。だからインサイド・フォワードならば比較的守備に慣れてはいたが、攻撃の最前線にいるウイングとセンター・フォワードの3人にいたっては守備には大変無関心に育っていた。

 しかし当時ヨーロッパで見た彼らにはすでに守備への任務が明らかに課せられていた。前号に挙げたフルバックが前進して相手のボール・エリア近くまで攻め込んだ時でも、ウイングもまたそこまで追っかけていた。マン・ツー・マンのマークという方針からすれば当然そうなるわけだ。
 こうしたサッカーを見て、僕は「全員攻撃、全員守備」のサッカーと呼び「これでわかるように攻撃も守備も全員でやっている。攻撃の基礎はまずバックスで作られ、守備はFWが相手バックスに自由に持たせないところに始まる。日本チームはFWの守備が拙いのでよくその虚を突かれた」とアサヒ・スポーツに書いた。
「その虚」の最も大きなのはマークの甘さである。最前線の3人に関する限りは甘さというよりもマークに気付かなかったといってよいかもしれない。フルバック・ラインから始まる攻撃に対し、とりあえずボールを持った相手の前進(ドリブル)を抑えることは即製でもある程度やれるが、最も困ったのは前号にも書いた通りフルバック同士のパスによる展開だった。たとえばRBがボールをもったときに、その前進は抑えても隣のCHや反対側のLBに対するCFやRWは自分の相手にボールが渡ったとき初めて気付いたように慌てて詰め寄るのだけれども、事前の厳しいマークはすぐ忘れて即製では容易に身に付かなかったのである。

 この悩みをやはりアサヒ・スポーツにつぎのように書いた。「マークを忘れるとボールはバックスの間で右から左へ(左から右へ)と素早く渡され、試合の局面は右から左へ(左から右へ)と易々と変わってしまう。それは味方の守備陣が動揺する源となる。フォワードであれバックであれ、味方がボールを持てば素速く相手から離れ、相手がボールを持てば直ちにマークせよという原則を忠実に実行しなければならない。彼らはそのようなサッカーをやっているといえるだろう」


取られないドリブル

 攻撃にはもちろん一気に相手ゴールへ迫る速攻もあるが、バックスの帰陣が速いし、素速くきびしいマークがあるので、そう容易に縦への動きだけでは突破できない。そこでフルバックも一役買った攻撃は、3月10日号に書いたような多彩な中盤戦へとつながり、右に左にとボールを動かしているうちに生じた守備陣のちょっとしたスキを突く際どいプレーで、最終段階のシュートへ持ち込もうとする運びで展開する場合が多くなる。ここでもまた彼らと我々との間に多くの差がみられた。その例をいくつか挙げると、まずドリブルだ。
 学生チームにも木村君のようにスピードがあって縦へ突っ走るドリブルでは効果をあげた選手もいたが、一般的には突進型で、反面キープ力という点では弱い。だから前方に広く空いたスペースがある場合はよいが、前のスペースが狭いときや横から相手が寄ってきたときに簡単に奪われたり、ドリブルが乱れて献上したりの例がきわめて多かった。「相手に取られないドリブルを工夫せよ」とメモに書き残している。
 彼らはボールを常に足元に置き、右から寄れば体を入れて左にボールを置き、左から寄れば体を入れて右に置きしてボールを実に自由に扱うので奪うのに大変苦労した。相手も学生チームだとまだタックルに入るスキがあるが、リーグ級になると容易なことでなかった。


キックの正確性と多様性

 次にキックがある。最初に感心するのはドリブルよりこれかもしれない。  まず狙いに対して狂わないことだ。方向と飛距離が狂わないからパスの受け手はやりやすい。だからパスが確実につながる。そのつながるパスと前述した取られないドリブルが結びついて生まれる全体のキープ力が新しいサッカーを生みつつあった。右から攻めようとしてダメなら左へ回し、割って入ろうとしてダメならばまた戻って攻め口を探すといったふうにやれるのもキープ力があるからで、バスケットボールのようだといったのもこういうところにある。
 さらにキックは正確なだけでなく、いろいろな種類のキックが使いわけられるということだった。なかでもアウトサイド・キックを彼らは盛んにしかもごくやすやすと使っていた。こちらも全くやれないわけではないが、まだぎこちなかったし、球勢も弱いものしか蹴れなかった。アウトサイド・キックを使うことで彼らのパスもまた多様な変化を増し、守備はしばしば意表をつかれる結果ともなった。


ヘディングの正確性

 新しいサッカーの基本的な条件の中には“正確”という考えがあるように思った。キックがそうだし、またヘディングもそうだった。シュートの場合はさておき、我々の間にも正確なヘディングつまり味方に確実にわたるヘディングがまったく考えられなかったとはいわないが、実際にはまだ甘くて、競り合いのヘディングになると相手に勝ってヘディングすればほぼ成功、それが味方へただちに渡ろうが渡るまいが、それは周りの味方が拾うか拾わないかの問題だとされがちだった。フリーな場合でも敵に渡さなければ、味方の動きにぴったり合わなくてもおおむねよかった。
 しかし彼らは、フリーの場合は受け手が最もほしがっている地点へ落とすことが常識のようであり、競り合いといえども相当な高率で味方へのパスとなっていたので感心した。たとえば攻められて味方のゴール前で演ずるぎりぎりの競り合いでも味方へ渡るパスを心掛けている。我が方としては、相手にヘディングさせなかったら大成功なのだ。それがどこに落ちようと、その処理は次の問題だった。ゴール前のクリアリング・キックが彼らの場合パスになるのに、こちらは単なるしばらくの危険脱出にとどまるのと相通じていた。
 こうしたヘディングの差もまた全体のキープ力の差を生みだす一つの原因となっていて、学生チームには重荷だった。体格差が響く競り合いではまだ無理だとしても、フリーのヘディングではもっと正確にやって、せめて逆に相手は献上する場面を少なくしてくれるだけでも心掛けねばならないと僕は思った。

 もっと基本的なボールを止めるプレー(ストップ)にしても、こっちにはついボールが大きくはね返ってそのまま相手に献上するという初歩的なミスが絶えなかったが、彼らにはことにリーグ級プレーヤーにはそんなミスはほとんど考えられないほどに足に吸いつくように止めた。こうしたいろいろなボールコントロールを“巧妙”というならば、それは奇抜な技というよりも正確な技の意味の強いものだった。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1976年4月25日号)

↑ このページの先頭に戻る