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ウェイン・ルーニー(7)05−06シーズン、リーグでの得点を増しFIFAワールドカップ・ドイツでの本番へ


 日韓戦の1−3の敗戦はサポーターには大きなショックだっただろう。国立競技場に集まった多くのファンの期待を裏切ったのだから、当分厳しい批判にさらされても致し方あるまい。
 東アジア選手権という公式戦の試合に体と心の備えが十分でなかったように見られるのは、記録と共に残る嬉しくない記憶だが、別の見方をすれば、代表チームがこの時期に韓国の若者に叩かれたのはまことに結構なことでもある。  それは、ベストの状態で戦えばひょっとするとオランダ代表から3点を取れたかもしれないと期待を抱かせる(自分たちだけだけかもしれないが)ようになった今の日本代表だが、ベストの状態でなければ中国に勝てず、韓国の勢いを止めることもできないのだということ、これが現実であり、実力であるということを選手たちが再認識したであろうと思うからだ。
 6月の南アフリカで、一定期間を良い体調で戦うために、今度の苦い経験が生きるだろうと思っている。

 さて、表題のウェイン・ルーニー。マンチェスター・ユナイテッドのエース・ストライカー。1985年生まれ、24歳の彼の成長の跡を追っている。前号は2004−05シーズンにエバートンからマンチェスター・Uに移籍し、そのシーズンのクラブのリーグ最多得点者(11点)となったところまで紹介した。
 この頃のルーニーについて多くの専門家たちがその能力について語っているが、アーセナルのアーセン・ベンゲル監督(みなさんもご存知、かつてのグランパスの監督)はルーニーが04年9月24日の対アーセナル(ホーム、2−0)でタイムアップ直前にチーム2点目(1点目はファンニステルローイのPK)を決めた試合の後でこう言っている。 「彼がユナイテッドに入ったことで、プレミアリーグの様相は変化する。ユナイテッドがカムバックして、ここしばらくの2頭レース(チェルシートアーセナル)に割り込んでくるだろう」と。
 その言葉どおり、次の年(05−06シーズン)、マンチェスター・Uは、アーセナルを押しのけてチェルシーに次いで2位となり、さらにその次のシーズンから3連覇することになる。もちろん、ルーニーだけの力ではないかもしれないが、賢人ベンゲルの予見は当たっていた。
 その05−06シーズンにルーニーは、リーグ開幕戦で古巣エバートン(2−0)からチームの2点目をもぎ取って以降、ほぼ2試合に1ゴールのペースで得点を重ね、シーズンを通じて16ゴール。ファンニステルローイ(21点)に次いでチーム2位の得点を生んだ。
 彼が「レベルの高い国際舞台」を目標にし、エバートンからの移籍の一つの原因でもあった欧州チャンピオンズリーグの方は、残念ながら1次リーグD組4位で終わった。

 代表の試合では04年の10月から始まったFIFAワールドカップ2006の欧州予選第6組の10試合のうち、7試合に出場した。19歳の彼はサッカーの母国の代表レギュラーに入ったが、スベン・ヨラン・エリクソン監督は、彼の能力に高い評価を与えながら、その使い道を決めかねていたようだ。この予選でのルーニーの得点はなかった。
 06年6月〜7月のドイツでの本番では、イングランドはまず1次リーグB組で、パラグアイ(1−0)を破り、トリニダード・トバゴ(2−0)を退け、スウェーデン(2−2)と引き分けて第2ラウンドへ進んだ。
 大会前にメディアは「ルーニーなくして勝利なし」などと書きたてたが、エリクソン監督は体調のこともあってか慎重で、第1戦の2トップはマイケル・オーウェンとノッポのピーター・クラウチ、第2戦では58分(後半13分)からオーウェンに代わって登場した。
 6月15日、ニュルンベルクでのこのトリニダード・トバゴ戦で、彼はようやくワールドカップに出場したのだが、前半に攻めあぐんでいたイングランドが、ルーニーとルーニーより若いアーロン・レノンがサイドに入ったことで、ボールが動くようになって終了直前、83分のクラウチ、90分のスティーブン・ジェラードのゴールを生んだ。
 第3戦は、第2ラウンドのことを考えても負けたくない試合だった。グループの2位になると、ノックアウトシステムの1回戦で開催国ドイツと対戦するからである。エリクソン監督はルーニーとオーウェンの2トップを初めて組んだが、オーウェンが4分に負傷退場して、クラウチと交代。2−2で引き分けて、結果的には望みどおりだったが、第2ラウンド1回戦を勝ち抜く(エクアドルを1−0)と次は決して楽な相手ではなかった。
 クリスチアーノ・ロナウドのいるポルトガルだった。


(週刊サッカーマガジン 2010年3月9日号)

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