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1936年ベルリン・オリンピック「右近徳太郎さんからの便り」

 こうして送り出したサッカー選手たちが、はじめてのオリンピックでどのように感じたのか。右近徳太郎(故人・慶応大学)さんの便りを紹介する。

 「長期にわたる合宿ののち、、感激に満ちた盛大な見送りに責任の重大なるのを感じつつ、故国を離れ、シベリア鉄道の二週間の旅を経て、ベルリンのオリンピック村に着きました。

 ライヒ・シュポルト・フェルトの美しい緑の“じゅうたん”のような芝生と、精神的な緊張は、私たちの調子を取り戻すのにそう長くはかからなかった。

 まず不慣れな外人チームの特質を知るため、三つのクラブと試合。

 最初の「バッカー」は、強いチームではないのに1-3。次の「ミネルバ」は、いいチーム。こちらもいいコンディションだったのに、2-3。第3戦の「グラアウ・バイス」は豪雨の中で、3-4。私たちは雨の中を黙々と帰ったものです。

 8月7日の対スウェーデン戦に望むとき、私たちは、彼らの強さを恐れるより、あくまで戦い抜くことを決心して、静かな落ち着いた気持ちでした。

 試合は彼らが先行し、前半37分には0-2。余裕を持ち始めたスウェーデンに対し、私たちは息の続く限り、足の動く限り走り、追って、3-2とリードし、彼らの猛烈な最後の攻めを防いでタイムアップとなった。

 次の二日間の休養ののち、イタリアと対戦。第1戦の疲れが回復しないまま、8-0という大きなスコアで敗れてしまった。

 2試合でオリンピックは終わり、このあとエッセンで1試合、スイスのチューリッヒでも試合をしたが、これも敗れて7戦1勝6敗となった。

 オリンピックに集まった18チームのうち、優秀なのは欧州のチーム。南米はペルーだけの参加で、非常に強かったが、とても変わっていた。北欧のスウェーデン、ノルウェー、フィンランド、それに英国などは、ロングパスを使い、ドイツやオーストリア、イタリアなどはショートパスを多く織り込んでいたが、彼らもスキがあればロングパスを使い、自由自在というところだった。

 彼らのプレーで目に付いたのは、シュートの強いこと。高く浮いた球の処理の上手なこと、身体のどの部分でも巧くボールを受けること、ドッジング(すり抜ける)の巾の広いこと、相手の2メートルくらい前から逃げてしまう。そして、ボールと敵との間に自分の身体をすぐに入れるので、こちらは背中にくっつく形になってしまう。トラッピングの時も非常に大きく、軽く逃げるので、つぶしにくい。

 またFBは、非常に苦しいときでも味方にパスして攻めのスタートを作り、無意味にタッチへ蹴り出したりしない。

 ドリブルするときの走力の緩急、ボールをキープする以外のプレーヤーの大きさ、早さ、鋭さなど、柔軟性に富んだ鋭いワザで伸縮自在に展開していく。

 彼らのこうしたプレーに接して自分たちと比べると、技術、精神、頭脳の三つのうち、第二、第三はいいけれど、第一の点が劣っている。先述の彼らのプレーは、皆が既に承知している極めて平凡なことだが、これが、私たちに欠けている。

 近頃は一般的にコンビネーションに留意するあまり、ここのプレーへの執着心と細心の注意が欠けているように思う。授業の休み時間に小さなゴム球を蹴るのも、個人技をのばす方法だと思います。」

 (最後の部分は、神戸一中の後輩に対するアドバイスで、軟式テニスのゴムボールで、休み時間にサッカーをするのが学校で流行していた)

 右近さんは、1911年生まれで、当時26歳、ドリブルが上手で、動きの大きいMF
。この頃の選手は、自ら考え、あるいは外国から図書を取り寄せて勉強し、それぞれが自分の個性的なプレーを作り上げていた。

 そうした先輩たちが56年前に身を以て感じたことが、その後、どれだけ活かされたのだろうか。

(ジェイレブ DEC.1992)

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