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ドリブルを十分に楽しもう


日本はドリブルがなぜ下手なのか

 近ごろは少年サッカーが普及したおかげでドリブルの上手な若い選手が少しずつ出はじめたけれども、おおよそ80年を超える歴史を経ていまなお、国際レベルを思うと日本サッカーの大きな弱点はドリブルが下手なことである。外国と直接比較されるのは日本代表選手クラスだが、いつの時代でも彼らのドリブルが当時の国内一般レベルを上回った選手であったことは事実であった。ということは、実際にはドリブルが下手では役に立たないことが暗黙のうちにせよ認められていたに違いないのだ。しかしそれでも、いつも試合になると手こずったのは外国選手のドリブルのうまさだったのである。日本選手はいつもボール扱いがまずいといわれてきたのも、そのほとんどはドリブルのまずさを指していたのである。

 なぜそんなにドリブルがうまくならなかったのだろうか。それをごく簡単にいえば、今でこそ少年サッカーでドリブルを楽しむ雰囲気が相当に出てきたけれども、つい10年ほど前までは、あの第2次大戦よりもっと以前から、日本ではドリブルを習得するに最も適した時期の中、高校生の年齢層に対してドリブル禁止にも近いアンチ・ドリブルの指導が大勢を占めていたからだった。
 少数のチームを除いては、ドリブルのミスでボールを奪われることを過度に恐れて、早く敵陣内にボールを蹴り込んでおかないと安心できないかのように“早く蹴れ、早く蹴れ”と指導された。キック・アンド・ラッシュがあまりにも長くその年齢層の大勢だったのである。パスを失敗して「ああ惜しい」といわれることはあっても、ドリブルで失敗すれば「持つな」と叱られるのが普通だった。大っぴらにドリブルが許されたのは、前方に広く開けたスペースへ攻め込む役目のウイングかセンターフォワード、または特にドリブルの優れた1、2の選手ぐらいだった。それが長い間の中、高校サッカーの基調だったのである。それで大人になってもドリブルは下手なままにとどまったのである。


ドリブルかパスか

 実際にはそのようなサッカーがいまだに根強く残っているけれども、それに対する反省も次第に出てきたようだ。その反省が新たにどんなサッカーを目指すかはまだ流動的だが、その中にパスを軸とする組織プレー(チーム・プレー)を基調としたサッカーを目指している有力な流れがあるように思う。
 この流れは、キック・アンド・ラッシュの力のサッカーに比べれば、技術を大いに評価している点で確かに進歩である。しかし、私の考えでは、それは最も素朴な段階から中間段階を抜きにして一挙に洗練された高いレベルへ飛躍しようとしているものなので無理があり、かえって将来に禍根を残すと心配している。中間段階とはドリブルが軸になる段階である。
 いいかえれば、中、高校生年齢期にそれにふさわしいサッカーを抜きにして一挙に大人のサッカーへ飛躍しようとしている。技術は以前よりは認められたのだから、ドリブルも以前よりは認められるけれども、結局ドリブルは中途半端にとどまって、次のパス段階へ急ぐあまり、かえってパスをすぐ行き詰らせる恐れが多分にあるのだ。

 新しいサッカーの特徴に“スピード化”ということがあり、そこから「ドリブルかパスか」の問題が生まれているが、スピード化だけの視点からでは当然に軍配はパスに上がるだろう。だがいまではヨーロッパや南米で最もスピード化されたと思われる試合を見ても、現実には依然としてドリブルは非常に大きな働きをしており、パスはドリブルあってのパスであり、ドリブル抜きのパスで成り立っているサッカーはまだ見られないだけでなく、将来も出てこないだろうと思われる。
 また個人を見ても、好いパスはほとんどドリブルのうまい選手から出ている。上手にドリブルできない(ボールを自由に扱えない)選手が本当に好いパスを出せるはずはないし、ドリブルの下手な選手がときに好いパスをすることはあっても偶然だとしか思えない。こうした関係を体と知能の両面から個人技の発展順序で見ると(奇しくもサッカーの歴史に見る技術発展の順序に符合するのだが)キックの次にはドリブルに関心を抱くもので、中、高校生年齢期はちょうどそれに当たり、そのあとにパスに目覚めるのが自然なのである。

 ワールドクラスへの道になぜこんな中、高校生サッカーを取り上げるかといえば、日本のサッカーは全体の歴史の上でも個人が育つ過程のうえでも、まだドリブル時代を経ていないのが行き詰まりをもたらしている大きな原因だからである。近ごろは世界最高レベルのサッカーを見ることも夢ではなく、テレビ、新聞、雑誌などは新しい情報をどんどんと伝えてくれるが、それはほとんど大人のサッカー界の情報なのだ。ところがそれを忘れてそのまま少年サッカーの世界に持ち込んだり、外国のサッカーがどんな環境の中でどんな歴史をたどって育ったかを考えないでやたら真似しようとしたりする誤りがあちこちにうかがわれる。中、高校生チームが4−2−4だ、4−3−3だとかいったり、2トップでウイングを中盤に下げてみたりするのもその例だ。ドリブル抜きでパス攻撃をさせようとするのも同じだ。
 以上のような事情だから現状ではドリブルはパスに優先する。サッカーも歴史的な産物であるから、目の前の出来上がったものだけを借りてきても意味はないし、それに目がくらんで先を急がないことだ。まだまだ急がば回れといいたい段階なのである。


ドリブルとは

 さていよいよドリブルそのものに移ろうと思うのだが、ドリブルとはどんな技術かとたずねたら、おおよそ次のような答えが返ってくるのではなかろうか。
「主として足の甲(インステップ)またはその内側や外側を使って、ボールを転がしながら走る技(走りながらボールを運ぶ技)」と。
 だがここではもっと実戦的に試合に役立つドリブルを考えてみよう。そのためにまずドリブルはいつ始まっていつどんな形で終わるかを知っておきたい。ストップのところでふれたように、2つのプレーのつなぎ目であるストップの次にはシュートかパスかドリブルとなる。そうしてストップが最初のタッチで決まるならば、2回目のタッチでシュートかパスしない限り、他はすべてドリブルに移ることになる。そのあと距離がたとえ1メートルか2メートルの短いものであれ、ボールにふれることがわずか二度か三度であれ、もう2回目のタッチからは完全なドリブルだといえる。
 ドリブルといえば、少なくとも10メートルかそれ以上の走っているという感じの出る距離のものを想像しやすいが、試合中ではむしろそれ以下の短いドリブルの方が多いのではなかろうか。いや、いくら短い距離でもボールを保持しておれば、たとえストップの延長のようなものでもドリブルに入るのだから、ドリブルのないサッカーは、いくら「ドリブルするな」といっても不可能だろうし、むしろ非常に短いドリブルも大きな役割を演じているのがサッカーである。
 ところで、そのドリブルは、途中で敵に奪われない限り、次には必ずパスかシュートにつながる。すると当然にそのパスかシュートが好いパスやシュートになるようにドリブルを工夫しなければならない。つまりドリブルは単にボールを運ぶだけのプレーではなく、同時に次のパスやシュートの効果をより高める準備プレーでもあるわけだ。

 さて次に、ストップしたボールをパスもシュートもしないでドリブルを選んだ場合の動機を考えてみよう。一つは、誰もすぐ気がつく単独での前進(攻撃)、もう一つはボールの保持(キープ)そのもの、そのどちらかを必要としたからであろう(ドリブルは常にボールを保持して行なわれるプレーではあるが、その意味の保持ではなく、特にある時間の味方ボールを続けることが前進よりも必要になる場合などのことが後者の保持そのものである)。いいかえれば、ドリブルはそうした2つの大きな目的を持っている。攻撃とキープの2つの面は、いつもどちらかに分けられるとは限らず、一つのドリブルに交互にあらわれたり、同時に重なったりもするが、いずれにしてもいつも敵という邪魔者がいるのは共通している。

 以上のようなことからドリブルというプレーの性格がほぼつかめるだろうが、そうした面から生まれてくるあれこれの要請を満足させるドリブルが試合に役立つ実戦的ドリブルということになる。こうした見方からあえて以上をまとめると、ドリブルとは、ボールを受けるや否や素早くコントロールし、距離や時間の長短に関わらず、味方の攻撃に役立つために、ときには直接的をかわして前進を図り、ときには、状況により敵の妨害を防ぎながらボールをキープして時間を稼ぎ、次に有効なパスかシュートにつなげるまで動きながらボールを操作するプレーということになろうか。
 ともあれこうした諸要請を理解することから、プレーのポイント(練習の目のつけどころ)が決まってくるのであるが、いろんな要請を持つドリブルは非常に複雑なプレーで、単なるボール技術だけでなく、状況判断、タイミング感覚、身体的なバランスとか反射運動などにも広く関係し、サッカーに必要な広い意味での大半の技術が集約されている底の深い技術だといえるだろう。そうした意味からもドリブル能力は次のより高いサッカーへの基礎条件だともいえる。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1978年3月25日号)

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