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メルボルン五輪大会で印象に残ったソ連・ブルガリア


日本サッカー50年『一刀両断』第11回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


攻め込むということと、点を取ること

――早稲田や慶応も部史を出すようですネ。10年ばかり前に神戸一中の50年史ができてから、関西では関西学院や明星高校(旧制明星商業)などが部史を作りましたが、関東の大物・早稲田や慶応となると、編集が大変だと思いますヨ。

川本:うん、慶応のその本のためにボクも引っ張り出されてね。ノコさん(竹腰重丸氏)松丸(貞一)氏とボクと3人で座談会をした。うん、だいぶ前だったが……、早稲田の方はこれは割合最近だが、やはり東京で、堀江(忠男・早大サッカー部長)たちと、これまた座談会をしたヨ。そのときに胡(えびす)君も来ていてネ。話が済んだあとで、ちょっとお願いがありますというんだ。なんや、と思ったら、足の指を見せてほしいというんだ。

――先号と先々号の話に出た川本さんの足の指のことですネ。

川本:そうなんだ。

――ボールを扱う、一番大事な部分である足に関心を持ってもらうのは個性を知るという点からも嬉しいことですネ。胡君のような指導者だけでなく、プレーヤー自身が体やプレーの特徴を知ってほしいものですネ。

川本:まあ、ボクなんか、あまりエラそうにいえるほど上手なサッカーをやったわけではないんだが、自分の長所、弱点を考えてプレーし、練習したからネ。その足の指の話だが、若い頃は特に指の長さを意識して測ったというのではないんだが、前にもいったとおり、何となくシュートのときに右足の指を使っているという感じを持っていた。
 ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦(1936年)の1点目も、左の加茂弟からボールが回ってきて、それをフォローした右近(徳太郎)が、後方からボクへ出してきた。ボクは一瞬蹴るのをずらせて、つまりタイミングを遅らせて蹴ったが、そのときも、3本の指で蹴ったという感覚だった。

――指で蹴る、というと、トウ・キック(つま先)ばかりと想像する人もありますが……川本さんのは、上から叩きつけるインステップでしたネ。

川本:うん、シュートというのはたかだか20メートル、長い方で30メートルだろう。上から叩けばボールは上がらない。20メートルくらいなら十分飛んでゆくヨ。もっともそのためには足首が強くなくてはいかんだろう。ボクのようにスナップが効いていなくてはあかんと思う。

――足の指のスナップもですネ。

川本:まあボクは二宮洋一(戦前の慶応のCF(センターフォワード))や釜本(邦茂)よりは肉体的条件は低かったから、それだけに、いろいろ工夫をし、自分のシュートを作ったわけだ。肉体的条件、例えば足の速さとか、筋肉の強さなどは劣っていたろうが、まあ関節が強いという点は一つの特徴だったと思っている。

――ボールを触るという感覚もあったのでしょう。

川本:市岡の2年の頃、テニスのゴムまりをついていた。今の言葉でいうと……

――ボールリフティング

川本:そうそう、そのボールリフティングをゴムマリで200ぐらいはついていたヨ。だから、中学でサッカー部に入ってやり出してからも、球を止めるということにはあまり苦労しなかった。

――ボールに対する感覚が良かったのを、その後も、さらにたくさん練習することで伸ばしたわけですネ。足首を1日に何百回、電車の中でも停留所でも回した、という伝説もありました。だから最盛期には20メートルくらいはバックスイングなしでシュートができたわけですネ。

川本:自分のシュート、自分の持ち方を作るためには、結局、自分で練習することだナ。こういうと、また、何度か話したのと同じテーマにはなるがネ。

――いや、大事なことは何度も繰り返して頂きましょう。近頃は釜本選手も若い連中に“自分でやる反復練習”を説いているようです。特に大学生が、笛で始まり笛で終わる練習で満足してはいけないといっていますヨ。

川本:ホイッスルに動かされてやるだけなら、猿回しのサルと一緒だヨ。なぜ自分でやる練習が大事かというと、自分をコントロールできなければいかんのだから……。

――昭和5年の日本代表のCF手島志郎さんに20年ほど前に話をうかがったとき、やはり、一人で練習する。相手を想定しながら練習するということを聞いたことがあります。

川本:手島さんのプレーは、手島さん独特のものだったからネ。まあ、昔のプレーヤーがみんな立派だったわけでもないし、そんなにレベルが高かったかというと、そうでもない。第一、素材の点でも、今の釜本みたいな選手はいなかったしネ。しかし、それでも学生時代、大学のプレーヤーは今よりもっと練習した人がいたんじゃないかナ。

――竹腰重丸さんはすごかったそうでうネ。当時のロービング・センター・ハーフで、一番よく動くポジションでしたが……。昭和5年の極東大会のときには、試合のあと動けなくて、田辺五兵衛さんが背負って帰った。それも、ちょっと油断すると背中から落ちてしまう。いわば、肩に手をかける力もなくなっていたという話でした。また、ベルリン組の右近徳太郎さん(故人・慶応)は、私には中学の先輩にあたりますが、この人はあまり練習をしなかったとか……

川本:早稲田にも、練習の嫌いなのもちょいちょいいいた。しかし、練習嫌いで有名だったのは右近だネ。塾(慶応)の連中は右近がダンスホールばかり行っているので往生した、という話だった。もっとも、松丸氏にいわせると、出てきたらやれというたことはみなちゃんとやるので文句をつけられなかったそうだ。

――しかし、右近さんは試合でも動きの幅は広いし、あれで、あまり練習をしていないとしたら奇妙なことですネ。みんなと一緒に、揃って、笛のもとでやるというのが嫌いだったんじゃないのですか……

川本:さあ、どうかナ。右近の体力で思い出したが、彼は試合で蹴られるとストッキングをおろしてしまう。はじめは「ストッキングをおろすのだから、右近もヘバったな、シメた」と思うと、それからが猛烈に頑張るんだ。早稲田の連中も、後には、右近がストッキングをおろすとかえって要注意……ということになったからネ。


想い出に残るメルボルン・オリンピック決勝

――川本さんの50年のサッカーで、自分がプレーしたゲーム、見た試合などのなかで印象の強かったのは……

川本:自分のプレーした試合はともかくとして、印象に残っているのは、1956年のメルボルン・オリンピックの決勝だネ。

――ソ連とブルガリアでしたかネ。ソ連にはGKヤシンが出ていたときですね。

川本:自分の頭のなかにあったのが、やっぱり、という感じがしたんだあの決勝は……。それは、得点というものの生まれる要因についての話だがネ……。あの頃は非常に細かいサッカーだった。ソ連なんかは相手のゴールエリアへ入ってからでもパスをしているほどだった。
 もちろん、ボール扱いもうまいんだが、その細かいサッカーで攻め込んでゆくことでは、得点にならず、その攻め込みを、相手が返し、それがいったん中盤へ戻ってから縦パス1本で点につながった。点が入るのと、攻めるのとは違う、ということだった。

――初めて外国の一流同士の試合をナマで見て、八重樫(茂生)たちが興奮して震えが止まらなかったというときですネ。

川本:ブルガリアにいいライトウィングがいて、それがハーフラインから3人抜いてあわやシュート、というときに惜しくも潰されたが、その潰した相手は最初に抜かれたソ連のレフトウィングだった。
 そんなプレーもあったし、ソ連のRFBが左肩を脱臼して、本来なら退場するところを左ウィングの位置にいて、決勝点はその脱臼したウィングのパスから生まれた――といった見どころもあったが、得点の経路と攻めるということが違うということを見たのが面白かった。

――キチンと攻めたからといって必ずしも点にならないことが多いのは我々も経験しますが……

川本:今の試合でも、まず相手ゴール前で混戦を引き起こしてから点を取ることも大切なんだヨ。
 モントリオール予選のソウルで釜本が2点取ったのも、決してキチンと攻め込んだ結果ではない。サッカーというのはそうしたものだ。


(イレブン 1976年11月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)

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