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シベリア抑留の頃、我がサッカー不毛時代


日本サッカー50年『一刀両断』第12回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


12月はシベリアからダモイ(帰国)の月

――「続・話の弾丸シュート」も、50年の日本サッカー史を川本さんの経験されたこと、直接見聞きされたことなどを語って頂いてきましたが、この号、つまり11月に出る分が、ナンバーの上では12月号ということになります。

川本:いささか、駆け足で通り過ぎた感じもないではない。もちろん、日本サッカーの流れのなかで、もっと語るべき人も事件もあるだろうし、また、裏話といったものもあるわけだが、いままだ触れるには難しい問題もあるしネ。それはともかく、12月というとボクには重要な月でもあるんだ。

――と、いいますと、

川本:ボクがシベリアから帰って来たのが12月7日なんだ。

――そうでしたネ。確か昭和24年だったか。

川本:その帰国したときに舞鶴の引揚援護局で受け取ったのが、サッカー仲間からの寄せ書きなんだ。

――額に入れて川本さんのオフィスに飾ってある寄せ書きですネ。

川本:昭和22年の東西対抗が神宮(当時はナイルキニック・スタジアムといっていた)であった。その試合のあとで、シベリアに抑留されている川本に寄せ書きをしよう、ということになったらしい。

――昭和21年に西宮で、東西学生選抜の対抗、OB選抜の対抗の2試合をしたのが、戦後の全国的な復活試合でした。そしてその年の5月に曲がりなりにも日本選手権をして、22年の4月3日に、東西対抗をしたのです。
 天皇陛下が戦後のスポーツ競技に初めておいでになり、展覧試合ということでスタンドも満員でした。関東はベルリン組に慶応の二宮洋一さんたちが加わり、関西は、私の兄や鴇田(正憲)など学生主力で2−2の引き分けでした。その頃川本さんはシベリア……。

川本:兵隊で満州(今の中国東北地区)にいて、戦争が終わり、さあ帰れるのかナと思っていたら、シベリアへ連れてゆかれた。
 アムール河を渡って南下して、ナホトカへ向かうのかと期待していたら、太陽を見ると方向が違う。

――シベリアゆきや、とがっかりする……。

川本:この辺の情景は、小説の『不毛地帯』(山崎豊子)にもよく書けているヨ。で、ブラゴエチェンスクからどんどん西北、そして西へ向かって貨車で運ばれ、2ヶ月かかって昭和20年11月2日にイルクーツクに着いた。
 はじめはイルクーツクから離れた山のなかで森林伐採をやらされた。その山のなかである日、発熱した。

――医者なんかいないんでしょう。

川本:夜中にトラックに乗せられ、毛布でぐるぐる巻きにされイルクーツクの病院へ運ばれた。病院へ入ったら熱は下がってしまった。それで、イルクーツクのラーゲル(収容所)に入れられた。

――川本さんがシベリアで無事だということが分かったのは……

川本:昭和22年頃に捕虜通信が許された。どういうわけか、その前にボクがシベリアで死んだという話が伝えられて家族はガッカリしていた。そこへ、イルクーツクからの通信が届いたんだ。サッカーの仲間も、それでボクがイルクーツクにいることを知ったのだろうナ。


舞鶴で受け取った寄せ書き

――せっかくの寄せ書きが……

川本:捕虜通信は一方通行だから、寄せ書きは舞鶴で止まっていたわけだ。その寄せ書きを見たら、竹腰(重丸)、村形(繁明)、松丸(貞一)、堀江(忠男)、市橋(時蔵)、後藤(数雄)……まだまだいっぱい、たくさんの人が書いてくれているんだ。

――シベリア帰りの川本さんにはみな懐かしい名前ですね。

川本:うん、実際そうなんだが、その寄せ書きを見たときの第一印象はネ……なんや、みな生きて、はよう(早く)帰ってやがるナ……という感じだった。

――ふーむ。そらまあ、4年間もシベリアで苦労していたんだから……。

川本:おおかた4年半だよ。なかには「君のことだから元気でサッカーをやっているだろう」(西邑昌一)だとか、「この手紙を見て、フンということだろう」(福田剛一)なんていうのもあった。

――しかし、いい線いっているんじゃないですか、その「フンという……」なんて。

川本:そうかナ、とにかく、こちらは長いことシベリアにいてサッカーどころじゃなかった……。

――抑留時代はサッカーに縁は無かったのですか。川本さんより少し下の田島昭策さん(昭和13年関学が東西学生王座で勝ったときのFW)はヨーロッパに近いところだったとかで、だいぶ抑留時代にソ連のサッカーを見たと聞きましたが……

川本:ヨーロッパに近ければそういうこともあったろう。こちらはシベリアだ。バイカル湖の南岸からアンガラ河が流れ出る。アンガラ河は、エニセイ河に入るのだが、そのアンガラに沿って、正確にはアンガラ河とイルクート川の合流点にイルクーツクがある。同じソ連抑留の兵隊でも、タシケント辺りは気候もよかったらしいが、シベリアの冬の寒いことといったら……。ロシア語で極寒をマローズというんだが、そのマローズになると、水量豊かでしかも急流のアンガラ河が凍結するんだ。
 そんなところで、栄養不足の状態で色んな雑役をやらされた。手に職のある兵隊、例えば大工さんなんかだったら、日本人は器用だからロシア人が設定したノルマなんかパッと片付けられる。こちらは技術がないからもっぱら雑役で、賃金も安いし、大変だ。石炭の露天掘りのレール運びなんかは堪えたネ。ショベルカーが彫り進むあとへ、4人でレールを担いで敷いてゆくんだ。
 サッカーで鍛えたからもったわけで。


サッカーで鍛えた体で重労働に耐える

川本:ボクはシベリアの抑留から無事に帰る人は猛烈に意志が強いか体が強いか要領がよいか――のいずれかだと思うが、まあボクなどは、その3つを少しずつ持っていたのかナ。とにかく、重労働でまいった、とは思わなかった。やはり東伏見(早大グラウンド)のおかげだろう。栄養失調で足が弱ったのは堪えたがネ。そうそう、レンガ工場で働かされたこともあった。そのレンガ工場時代、同じ収容所の仲間が手紙をことづかってきた。開けてみると冒頭に「私は二宮洋一の次のセンターフォワードです」と書いてある。慶応を出た服部元という人だ。やはり近くの収容所にいるというんだ。その夜は、何年ぶりかでサッカーを思い出した。ベルリンでやっている夢を見たなァ。

――川本さんにとってはシベリアはサッカーの不毛地帯、いや、長いサッカー生活のなかの、不毛時代でしたネ。

川本:昭和24年の12月7日に家へ帰ったら、2、3日して大谷四郎君から電話があって、13日に東西学生王座決定戦があるという。早稲田と関大とだ。それで西宮球技場のスタンドでノコ(竹腰)さんと一緒に見ていたんだ。
 早大には岡田(吉雄=第1、2回アジア大会代表)関大には和田(津苗=第1回アジア大会代表)などがいた。ところがその試合、早大が蹴ると関大が取る。関大が蹴ると早大が取る。

――全然パスがつながらないんですネ。

川本:サッカーってこんなだったのかナ、いやオレが“シベリアぼけ”してるのかナ、と隣のノコさんに聞いたら、「いや、君のシベリアぼけやない、みなヘタなんだヨ」というんだなァ。

――それが、戦後の日本サッカーの第一印象だったわけですネ。こっちも“不毛時代”。これではオレがやらないかんと……。

川本:それほどではないが、その次の年から、マリを蹴った。いささか、ボクのサッカーでは“蛇足”だったが。

――軍隊と合わせて数年のブランクのあと再び、試合に出るようになったのが35歳からですネ。それでも、若いときに積み重ねた技術は落ちないということを多くの人に見せてもらったのはよかったと思います。

川本:まあ、野球の投手でもほんとに掴んだコントロールは死ぬまで落ちることはないはずだからネ。


(イレブン 1976年12月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)

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