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大阪に招致した東京五輪の5−6位決定戦


日本サッカー50年『一刀両断』第13回
聞き手 賀川浩(大阪サンケイスポーツ)


「箱根の山を越さない」

川本:この夏だったかに大阪の大島(靖)市長がオリンピック招致のアドバルーンをあげたな……。まあ、それはともかく、オリンピックといえば、今から12年前の東京オリンピックを思い出す。あのとき、大阪はオリンピックのサッカーをやったのだから……これは特筆すべきことだった。

――大阪トーナメント、いわゆる5−6位決定戦ですね。市田左右一(いちだ・そういち)さん(当時のFIFA理事)にずいぶん頑張って頂いたんですネ。

川本:そう、ボクと市田さんとが首謀者だった。最初に案を立てたのは4つのグループ・リーグのうちの一つを大阪中心の関西へ持ってこようということだった。

――オリンピックのサッカー競技はローマ大会のときから本大会参加の16チームを4グループに分けてリーグをし、その各組上位2チームの合計8チームが準々決勝、準決勝、決勝へ進むやり方になったのです。そして、ローマ大会では、ナポリやフローレンスなど都市で開かれています。ボクはこのやり方を日本へ導入し、関西にも1グループをもってくれば(オリンピックという看板で)サッカーの施設もできるし、普及になると考えた。ところが組織委員会の壁は厚かった。

川本:うん、とにかくやろうということになって、市田さんはFIFA(国際サッカー連盟)の方を受け持つ。ボクは組織委にあたるというわけで、四角誠一さん(大阪スポーツマンクラブ会長)たち、大阪の体協、体育関係のエライ人に話をして、一緒に東京へ行ってもらった。組織委員会の与謝野秀(よさの・しげる)事務総長に会ったところが「オリンピックは箱根を越さない」という。その晩、組織委の藤岡端・競技部長と築地のすし屋で飲みながらだいぶ文句をいった。彼は静岡高校から東大を出たサッカー畑の人間で、毎日新聞に長くいた。そんな関係で彼からのサポートも頼んだのだが、なにしろ与謝野事務総長は「箱根を越えない」だから……、その晩、いろいろ考えて、こうなったら埼玉の福永建司さんに頼もうと考えた。

――福永さんは当時確かJOC委員でした。

川本:ちょうどブラジルへ行っていて2〜3日したら帰国するというので、そのまま東京にいて、羽田で福永さんをつかまえて事情を話した。福永さんとは話をしたのは、確かあのときが初めてだった。

――よほど「箱根を越えない」がコチンときたんですネ。そのあと、帰阪してから電話で「与謝野事務総長は“無礼”だ。そんなに大阪がやりたかったら、アジア大会でもやられたらどうですかといいよった」と怒っておられましたね。


特筆される大阪トーナメント

川本:福永さんは快く引き受けて、早速、あたってくれたんだが、それもあかん。そこで、いろいろ考えてみたら、五輪サッカーは決勝、3位決定があって1位から3位(4位も)まで決まるが、5位、6位を決める方法がない。陸上競技などでも1位〜6位まで成績があるやないかということで、市田さんがFIFAと、5−6位決定戦ということで話をまとめた。

――これも川本さんからの電話で「いろんな手で突いたが、どうもあかん。今度はFIFAの提案ということでゆく。外交官の与謝野攻略は、外国の権威筋から頼むんや」という話を聞かせてもらいました。

川本:うーん、とにかくオリンピックのグループ・リーグ、つまり正式コースは無理というので新手を、FIFAがやるという形にした。

――与謝野さんが、FIFAのケーザー事務局長宛に1963年5月13日付で出した手紙が「FIFAと日本協会の責任において、大阪で大会を開催すること、大会では自動的に5−6位が決まる(準々決勝で敗れたチームによるトーナメント)が、これは東京大会の公式記録には記載されず、また、組織委からは賞状も出せないが、それでよいか」という内容で、これで大会開催が決まったのですが、その前に、2月頃だったかFIFAからの最初の提案に対して与謝野さんから、非常に慎重な書き方ですが「東京オリンピックの組織委がやるのでなく、FIFAがやるのなら、自分としても賛成できる」といった意味の返書がいって、その写しがまたFIFAから市田さんへ、市田さんから川本さんへ届いて、これで、どうやらゆけそうだ――ということになりました。

川本:大阪はじめ、各地でオリンピックのあとで「アフター・オリンピック」と称して、陸上競技はじめ外国選手との交歓競技をやったが、サッカーの大阪トーナメントは、例えFIFA主催といっても「準オリンピック」やからな。建設中の長居の競技場もいよいよできることになって、FIFAのラウス会長たちが視察に来てくれた。

――ええ、昭和38年(大会の前年)の12月でした。サー・スタンレー・ラウス会長と、アマチュア委員長のバラッシ(イタリア)、グラナトキン委員(ソ連)、ケーザー事務局長の4人が大阪へ来て、ほぼ完成した長居競技場を見たんです。

川本:あれで、いよいよやれる、となった。

――世界で一番大きなスポーツ団体FIFAの会長が来る……というても、その頃マスコミもその権威をよく知らなかった。

川本:日向さん(日向方斉・住友金属会長=当時・大阪蹴球協会会長)が空港へ迎えに出てくれた。その晩アローで飲んだわけだ。

――役員でもないのにボクもあの高級なクラブでお相伴にあずかったのですが、なんかの拍子にラウス会長がスピーチをすることになったら、ラウスさんはこういった。「シェークスピアの“シーザーとクレオパトラ”に美女とともに天幕のなかにいて言葉は不要なのだ。というくだりがあるのに、今こうして美しい女性に囲まれて、手に酒を持っていてスピーチをしなければならないとは……」英国紳士のウィットという感じでしたネ。

川本:うん、いろんなことがあった。もっともボクは、与謝野事務総長の「箱根を越えない」にコチンときたのと、藤岡に飲みながら文句をいうたのと、羽田でたくさんの人が待っている福永さんをつかまえて頼んだこと、この3つが一番印象に残っている。

――それまでも、オリンピックという大義名分で、関西のサッカーに何かプラスをと考えた人はたくさんいたが、結局、オリンピックは一都市で開催するなどという時代遅れのIOC憲章を順守する組織委にはねかえされていたんですネ。

川本:そうなんだ。ボクも組織委に掛け合いにゆくまでは、まあ頼んでもダメだろうな、うまくゆけばモウケもの、という程度だった。
 それが「箱根を越えない」なんていわれてグッときた。

――その怒りが大阪トーナメント開催になったわけですネ。

川本:大阪トーナメントは結局、準々決勝の敗者、ユーゴ、日本、ルーマニア、ガーナが来阪して、ユーゴ対日本(大阪)ルーマニア対ガーナ(京都)のあとユーゴとルーマニアが戦ってルーマニアが5位になった。

――日本は、グループリーグでの1勝とチェコ(準々決勝)の敗戦で、もうぐったりしていたようですネ。
 私は当時、東京にいて大阪トーナメントの取材はできず、川本さんに電話をしたら「クラマーが、もう準々決勝進出で責任を果たしたと思っているものだから、選手まで、その気になっている。大阪ではとてもダメだ」と電話口で怒っておられましたヨ。

川本:試合はそんな具合だったが、ともかく、オリンピック期間中に、オリンピックそのもの(あるいは準オリンピックというべきか)を開催したのだから。

――せっかくオリンピックというものがありながら、東京中心にしか考えない日本のなかで異色のことをやったということで50年のサッカー史では大事件の一つといえましょう。その次のメキシコ大会でもやはり5−6位決定戦をベラ・クルスという町でやっているんです。もちろんグループ・リーグの分散は、メキシコ五輪でも当然で、今度のモスクワ大会でもキエフなど、ずいぶん遠くに分散するハズです。

川本:イルクーツク(前号参照)ではやらんのかネ。

――まあ、シベリアまではネ、それこそウラルは越えない、というんじゃないですか。


※50年の日本サッカー史を斬るは、これで終わり、次号からまたテーマを変えてはじめます

(イレブン 1977年1月号「日本サッカー50年『一刀両断』」)

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