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大衆の血を騒がせる心の糧

 オリンピアが首都アスンシオンに創設されたのは1902年、日本の明治35年にあたる。
学校の体育の先生だったオランダ人、ウイリアム・パートがパラグアイにサッカーを持ち込み、彼の教え子たちがクラブを設立したのだという。

 アスンシオンは南米一の大都市、ブエノスアイレス(アルゼンチン)の北方1040キロ。ラプラタ河からパラナ河を経て、パラグアイ河をさかのぼったところに位置する。1537年、スペイン人のペドロ・デ・メンドーナが船団を率いてラプラタ河港に到着し、その部下の一隊が大河を北上して伝説の王国を探し求め、内陸探検の基地としてアスンシオンを建設した。その日が「聖母昇天際」の日であったために、アスンシオンと名づけられたという。

 そのスペインの統治下からパラグアイが独立したのは、1811年。その後は独裁政権が続き、1862年にフランシスコ・ソラノ・ロペスが大統領に就任。その2年後、ロペスはアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国を相手に戦争を起こし、はじめは原住インディオ・グアラニ族を主体とするパラグアイ軍が優勢だったが、最後には国力の差が表われて1870年、ロペス大統領の戦死とともに降伏した。

 この戦争によって、パラグアイは多くの男子を失い、国土は荒廃し、立ち直るには年月が必要だった。

 そんなパラグアイ人にとって、サッカーは欠くことのできない楽しみであり、もともと勇敢を好むグアラニ族と、その混血からなる大衆の血を騒がせる心の糧ともなった。

 1902年に裕福な家庭の青少年たちよってオリンピアが創設されると、このオリンピアに対抗する庶民的クラブ、セロ・ポルテーニョ、グアラニ、リベルタードなど、次々にクラブが創られ、1906年には「リーガ・パラグアイ・デ・フットボール」(パラグアイ・サッカー協会)が設立された。LIGA(英語のリーグ)であって、アソシエーション(協会)といわなかったところが、ちょっと他の国とは違う点だが、リーグという言葉自体、グループを表わす意味だから、特に不思議とはいえない。

 初の国際試合は1919年、アルゼンチンの来訪によって行なわれた。南米で最も早くサッカーが広まったアルゼンチンはさすがに強く、パラグアイは4試合やって全敗に終わった。それでも1921年にFIFA(国際サッカー連盟)に加盟し、同じ年に南米連盟にも加盟するなど国際舞台へも乗り出し、翌年には南米選手権で準優勝に輝いている。

 パラグアイ・サッカーの順調な発展は、30年代のプロ導入から。ポリビアとの戦争で、リーグ中断などの痛手を受けたものの、南米ではアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三強に続いて、チリやペルーなどとともに第二勢力となった。
(サッカーダイジェスト1991年2月号より)

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