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第1回 南米で見る、南米同士の試合。技巧的で、格闘的で、ファウル連発も辞さない壮絶さだった


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 新しい年に発売されるこの号からしばらく「“コパ・アメリカ”アルゼンチンの旅――」を続けさせて頂きます。
 昨年6月27日から7月12日までの南米選手権(コパ・アメリカ)については、すでに本誌の87年9月号(NO.341)や87年夏季別冊「コパ・アメリカ特集」に詳しくレポートされていますが、わたしにとって、初めての南米人だけのタイトルマッチ、2度目のアルゼンチン取材は、新しい発見や再発見、驚きや不思議、そして喜びの連続でした。
 いささか旧聞に属する大会についての“旅”を、あえて連載しようという編集者の意図は、そうした、わたしの驚きの中から、日本とはまるっきり違う、南米大陸と、南米サッカーの何かを引き出そう、というのかもしれません。
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地球の反対側、6月下旬の冬の朝

 目覚まし時計に起こされた。7時――窓の外は真っ暗だった。
 ぼんやりした頭で考える。
 ああ、ここは、冬なんだ――。
 今日は1987年6月28日、日本だったら、最も日の長い時期、つまり夜の明けるのも早い頃なのだが、ここはブエノスアイレス。南緯35度、西経150度近く、だから、季節はまるきり反対。冬で、日の出も遅いのだ。
 そう、自分は、いま、そのブエノスアイレスのホテル・パンアメリカーナにいる。
 ようやく頭がはっきりしてくる。
 昨日、6月27日にブエノスに着いて、午後に試合を見た。今日は、これからコルドバへ飛ぶのだ。国内線だからアエロパルケの方から出るのだな。

 8時にフロントで勘定をすると、国際電話の料金がついている。日本へかけたが、相手不在でつながっていないのに……。ダイヤルを回してから、何秒だったか過ぎているので、料金がついているのだという。64アウストラルは30ドル近い。交渉の末、払わなくていいことになった。1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会のときは、ホテルから、日本へのダイヤルの通話はなく、プレスセンターから、日本へ5分で通じるといったら、古くから住んでいる日本人は誰も信用しなかった。電話事情の悪かったブエノスで、近年、市内の一部区域から、外国との直接通話が出来るようになったらしい。このホテルはアベニーダ・ヌエベ・ド・フーリオ。つまり「7月9日大通り」がスイパチャ通りと交差するところ。新しい建物と設備が売り物――。電話が便利になったのはいいが、ダイヤルを回せば通話していなくてもコンピューターに記録されているらしい。
 近代化も良し悪しだなと苦笑しながら、空港へタクシーを走らせる。


コルドバへの飛行

 アエロパルケは名前のとおり、ラプラタ河に近い広い公園にある飛行場。78年は、ここから各地へ飛んだものだ。空港の建物は拡張され、バゲージを持たない乗客は別の受付で通してくれる。ああ、こういうサービスは手際良くなったと感心する。
 9時35分離陸の予定が少し遅れて10時に飛び立つ。30分ほどでサンタフェに着く。給油に20分、目的地コルドバ到着は11時30分という。サンタフェはブエノスアイレスから500キロ。パラナ河沿いの町だが、ここの空港におりる前にパラナ河が、まるで湖のように広がっているのに驚かされた。隣席のイスラエルの紳士は、よく氾濫するのですよ、といっていた。
 サンタフェを離陸してすぐ、機内スナックのサービスがある。チーズをはさんだ小さいパンと甘い小さなケーキ。コーヒーをお代わりした後で、旅のメモを整理し、反芻する。


“南米”の魅力にひかれて

 10年前の1978年にアルゼンチンでのワールドカップを見た。あのリバープレートを埋めた大観衆と、彼らが投げる紙吹雪、その7万人と、テレビを通じてサポートする2,500万人の国民の痛いほどの期待を担ったアルゼンチン代表の爆発的な攻撃は、南米大陸での南米チームの生き生きとしたサッカーの象徴のように思える。
 だから、2年半後、ウルグアイのモンテビデオで、ワールドカップ創設50周年記念として、ワールドカップ優勝6ヶ国の大会が、コパ・デ・オーロ(黄金のカップ)の名で開かれたときはためらうことなく飛んで行った。そこで、82年スペイン大会へのブラジル代表の骨格を知ることができ、78年優勝チームにマラドーナを加えたアルゼンチン・ナショナルチームとの豪華な戦いを見た。同時に、アルゼンチンの鋭さとも、ブラジルの華やかさとも違う、ウルグアイの、いささかヤボったくて、骨太で、それでいて、ここというときには切れ味の良いプレーに目を見張った。
 そして、今度「これまでのホーム・アンド・アウェー方式を変えて、10ヶ国のナショナルチームが集結して2週間のトーナメントとなる」コパ・アメリカ――。これは見逃すことはできない――と、久しぶりに「遥かな国」へ足を伸ばした。
 その大会が前日、始まったのだ。


開会式とマルビナス諸島

 それにしても――と前日のメモにある。
 それにしても――開会式の人文字でマルビナス諸島の紛争を思い出すとは――と。
 参加10チームのチームカラーのトレーニング・スーツを着た12人の少年たち10チームの行進で、開会式のショーが始まった。型どおりの行進の列の前に、各国の農夫のスタイルの3人ずつが歩いたのは、ちょっとした趣向だった。
 そのあと、少年少女のバンド、バトントワリング、体操の演技と若い力をフィールドの上にあふれさせ、健康美を発散させる。幸い、冬というには、暖かい陽射しだったから、芝生の上も、それほど寒くはなかったろう。
 やがて、白いユニフォームとパンツの少年たちがフィールドに現れ、合図とともにセンターサークルの近くで円形を描く。位置について芝の上にしゃがみ、背を丸めた150人ほどの少年の人文字は、なんと南米の地図になった。その線の中から数人が飛び出して、地図の下部、つまり南米全体の南の細くなったところの近くに、しゃがむ。“ああ、フォークランドだ。いやここでは、マルビナス諸島というのかな”と思ったとき、四分入りのスタンドからも拍手が起こった。その拍手に応えるように、メインスタンド側タッチラインに沿って並んでいた子どもたちが、立ち上がると、10ヶ国の国旗を差し上げた。
 少年の人文字はAFA(アルゼンチン・サッカー協会)に変わり、次いで、南米サッカー連盟のマークをも描いた。
 そういえば、マルビナス紛争、英国流ならフォークランド紛争を起こしたアルゼンチンの軍人内閣は倒れ、いまはアルフォンシン大統領のもとに民政が復活している。


(サッカーマガジン 1988年3月号)

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