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第2回 ロサリオよりもコルドバ。平坦なブエノスと違った趣がある町の空気を知りたかった


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 先月の高校サッカーの決勝はテレビの前にいて、ずいぶん力も入り、驚き、感心しました。たまたま、国見の小嶺先生とは、このコパ・アメリカの旅でお目にかかったから、チームも身近に感じたものです。勝った国見の選手たち、全部員に、遅ればせながらおめでとうを――。敗れた東海第一の皆さんにも、いいプレーを見せてもらってありがとうを申し上げたい。そしてサッカーとの関わりは、まだまだ続けてほしいと思うのです。若いときに全国大会の決勝という舞台を踏んだ経験はこれからも生きるでしょう。
 我がコパ・アメリカの旅はコルドバ。1573年に創設されたアルゼンチンで最も古い町で、新しいブラジル代表を見るところです。
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少ない観客を前に新しいスター群

 ジョジマールの口ヒゲに貫禄がついてきた。カレッカの左腕には白と黄色と緑のキャプテンのバンドがついていた。ミューレルは相変わらずのウェーブのかかった頭髪、メキシコのときよりスリムに見える。ああ、あれがライか、背番号8をつけた長身、兄ソクラテスと違ってヒゲはないが……。
 1987年6月28日、コルドバのエスタディオ・ムンディアル。試合前にグラウンドに現れたブラジルのプレーヤーたちは、見覚えのある顔も、そうでない選手も、等しく、頼もしげに見えた。ボールを触るとき、彼らの一人ひとりは楽しげで軽快で、いかにも、サッカーをするために、この世に生まれてきたかのようだった。

 もっとも、新しいブラジル代表の第1戦というには観衆は少ない。入場料が高いのか、アルゼンチン人は、アルゼンチンの試合しか興味がないのか、いやブラジルの相手が“小国”ベネズエラだからなのか。
 バックスタンドは、ざーっといっぱい。メインの方は空いていて、1万2,000人とか。
 この日、11時30分にブエノスアイレスからコルドバ空港に到着したわたしたちは、カメラの人たちと一緒に白タクでスタジアムへ直行した。試合開始は午後3時なのだが入場証や、カメラマン用のチャレコ(チョッキ)をもらうためだった。ブエノスアイレスのリバープレートでは、入場証などチェックをちゃんとしていたのに、ここは早く来て待っただけで、何もなし。観客が少ないというゲームは、報道もまた少ないということか。


攻撃一方、変幻自在の展開

 トスでベネズエラのゴールがメインスタンドから見て右側になり、左側にいたカメラマンが大移動。このあたりワールドカップのように取材制限がないのが楽しい。
 さて、始まるとすぐ、ブラジルが攻める。MFドゥグラスのドリブル、左DFネルシーニョの突進、カレッカの50メートル独走と、それぞれ突破力を見せる。
 黒人でスリムなバウドとカレッカが2トップ、そのバウドをネルシーニョが支援、というより、まるで左ウイングのように長い距離を縦に動く。さすが、ブラジル、ちゃんとブランコ(86年の左DF)のような選手がいるんだなと思う。ジョジマールも、得意の、右からの攻めを見せていいライナーのクロスを送る。間断のない攻撃は、12回ものチャンスを数えたが、そのほとんどをGKバエナがファインプレーで防いだ。
 押し込まれ、ペナルティエリアに赤ユニフォームが8人となることもあり、そこへ5人の黄色が侵入するからラストパスやシュートは相手に当たることもある。
 前記のネルシーニョなどは、相手の多数防御に、常識的にだろうか、通るとも見えない、シュートのようなグラウンダーのクロスを入れたりした。相手に当たって、不安定なボールがこぼれればいいという考えだろうか。
 手を変え品を変えての攻めが得点となったのは33分。リカルドのクロスがベネズエラDFの右足に当たり、リバウンドを中距離からエドゥ・マランゴンが左足で右下隅へ決めた。いや、そのシュートもDFモロビックに当たって方向が変わったように見えた。7分後にブラジルは右から攻め、左へ回ったのをネルシーニョが中へ返す。例の速いセンタリングが今度はモロビックの右足にまともに当たって方向を変えゴールへ飛び込んだ(記録はオウンゴール)。


強風、キーパーのキックがCKに

 ハーフタイムの頃から風が強くなる。我々の右手側、スタジアムの外に砂煙があがったと思った、それがグラウンド一帯に流れた。
 スタンドの電光掲示板にMH50と出る。時速50キロは秒速14メートルになるか。ノートも机も、あっという間にザラザラになる。ベネズエラのゴール後ろのカメラマンは大変だろう。あとで聞いたら、カメラを構えている手が、持ち上がったり、揺れたりして仕事にならなかったそうだ。
 フィールドの周囲に立てられた広告の置き看板の一つが壊れて倒れる始末。
 そんな中で、ブラジルはカレッカのボレーシュート、ネルシーニョの走り込んでのシュート、タイムアップ直前のロマーリオ(ミューレルに代わっていた)のゴールで5−0と開いた。
 途中で、ゴールキーパーのパントキックが、風で押し返され、というより、上へ持ち上げられ、吹き流されてコーナーキックになった。
 試合のメモの最後にこうある。南米では、またオーパ(驚き)の連続かな――と。


記念切手になったカメラマン

 コルドバでの宿(やど)はグランデ・アストリア。市の中心街にあり、Bクラス。シャワー、洗面所、湯も一応出る。電話をかけたいと尋ねたら国際電話なら、すぐ近くの中央郵便局へ行ってくれという。ブエノスアイレスへも交換台を通じて頼まなくてはならず、万事が1978年のまま。
 ブエノスアイレスのホテル・パンアメリカーナが近代的だったのに比べると、だいぶ古めかしい。
 29日前、郵便局へゆくと、ワールドカップの優勝記念切手が売られていた。8枚セットになったのを買って帰ると、カメラマンの三井氏が、それを見て、この構図なら自分が写っているハズだという。メキシコのアステカ・スタジアムでマラドーナが肩車に乗って、トロフィーを差し上げている図柄で、そういえば彼らしい頭が見えた。接近してアップを撮ろうと人の渦の中にいたらしい。
 今度の大会には報道関係は合計1279人。うち、記者415人、カメラ216人、ラジオ、テレビ468人、その他(フリーなど)180人。うち日本人は記者6、カメラ5人が登録、フリーを合わせると15〜20人になるという。外国人の記者とカメラが160人だから、10%か、それ以上の大勢力。
 そうした日本のカメラマンの熱心さは、とうとう、アルゼンチンの切手の図柄の中に本人が写っているというまでになった。

 新しいコパ・アメリカの試合方法は参加10ヶ国のうち、まず前回チャンピオンのウルグアイをシードし、残りの9ヶ国を3チームずつの3組に分け、組内のリーグ戦によって1チームを選出し、ウルグアイを交えての準決勝、決勝へと進む。
 ▽1組 アルゼンチン、ペルー、エクアドル
 ▽2組 ブラジル、ベネズエラ、チリ
 ▽3組 パラグアイ、コロンビア、ボリビア

 試合会場はそれぞれ、ブエノスアイレス、コルドバ、ロサリオとなっている。
 わたしは、ブラジル−ベネズエラに続いて30日のチリ−ベネズエラを観戦したあと、7月1日にいったんブエノスアイレスに戻り、7月2日のアルゼンチン−エクアドルを見る。そして3日にはコルドバへ来て、ブラジル−チリを取材する予定にしていた。


コルドバ、女教授、ケンペス

 パラグアイのいるグループのロサリオよりもコルドバの回数を多くしたのは、もちろんブラジルの魅力もあるが、アルゼンチン第3の都市、平坦なブエノスアイレスとは、違った趣があるという、この町の空気を知りたかったからだ。
 ホテルから少し離れた小公園にヨロイ姿の男性像が立っている。ヘロニモ・ルイス・デ・カブレラ(FUNDADOR DE CORDOBA =コルドバの創設者)1573年7月8日とある。
 400年前にできたこの町は、アルゼンチンでは一番古い。そして1613年創立のコルドバ大学もまたアルゼンチンでは最古。ペルーにあるサンマルコ大学に次いで南米で2番目だという。
 コルドバという名は、スペインにも、メキシコにも、コロンビアにもある。スペインのアンダルシアの州都であるコルドバはセビーリャの北東120キロにあって、古い名を、コルドウーバ(CORDUBA)、またコロニア・パトリキアと呼んだという。古代ローマの支配からというから、ずいぶん古い町で、中世には学芸の町、西方のアテネとさえいわれた。
 そのスペインのコルドバとどういう関係かは知らない。あるいはヘロニモさんがコルドバ出身だったのかもしれないが、ちょっと面白いのは、メキシコのコルドバ市もコロンビアのコルドバ市も、どれもが山が近く、近くに流れがある。日本なら、山が近くて河があるのは、普通だが、アルゼンチンでは山が近いということだけでも珍しい。
 スペイン語は話せないくせに、こういう想像になると、どんどん進んでゆく。そして、ついには、山とCARO(コルド)という類推から、コルディエラ・ブランカというアンデスの山名まで頭に浮かんでくる。

 1981年正月、モンテビデオからの帰途ニューヨークまでの機内で、ニューヨークの大学の研究室へゆくというコルドバ出身の美人の教授と隣り合わせた。その先生は、もう一つのイスに座っている老夫人(知り合いでもないのに)の面倒を見てくれと、頼まれ、飛行中の気配りはもちろん、ケネディ空港へ着いてからもアメリカ国内線に乗り換えるため、ニューワークという別の飛行場に移る手配などを、事細かに係員に指示していた。
 その先生の聡明そうで優しい顔つきと、コルドバ州出身の78年のヒーロー、マリオ・ケンペスへの好印象に、あるいは、この北北西の町に魅きつけられたのかもしれない。
 銅像を眺め、町をぶらつくわたしに、このコルドバで、大会での最大のオーパが4日後に待っていたのだが……。


(サッカーマガジン 1988年4月号)

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