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第3回 巨大スケールのトレセン構想。不調のアルゼンチン、それでもマラドーナの技はさえる!


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 冬季オリンピックで、フィギュアの伊藤みどり選手の演技がずいぶん評判になった。大舞台で会心のプレーができるということはまさに選手冥利に尽きるといえるだろう。
 さてコパ・アメリカ(南米選手権)の旅、こちらはプロフェッショナルが、相手に会心のプレーをさせず、自分は会心のプレーをしようという、まことに激しく、トリッキーな戦い。そのなかで、きょうはアルゼンチン代表チームの第2戦を見るところです。
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エセイサ近くの合宿所で

 広い空間がうらやましかった。平坦な草っぱらは、ずーっと向こうの林まで続いていた。「エムプラドス・デ・コメルシオ」(EMPLADOS DE COMMERCIO)商業の従業員組合が持っている保養所を借りているのだと、案内の北山氏がいった。
 エセイサ空港に近いこの合宿所は、アルゼンチン・サッカー協会がよく使うらしい。大きな食堂兼ホール、25人が2チーム分泊まれる宿泊設備もある。
 何より、その敷地の広いこと。グラウンドは正規のものが2面、雨天用が2面、他に小さいのが何面あるだろうか。
 1987年7月1日、午後4時半頃だった。

 6月27日に始まったコパ・アメリカ(南米選手権)は、
  ▽27日 1組アルゼンチン1−1ペルー
  ▽28日 2組ブラジル5−0ベネズエラ
      3組パラグアイ0−0ボリビア
  ▽30日 2組チリ3−1ベネズエラ
 と前日までに4試合が終わっていた。

 ブエノスアイレスで27日にグループリーグ1組の試合を見たあと28日にコルドバに飛び、ブラジル対ベネズエラと、チリ対ベネズエラの2試合を観戦し、1日、朝の飛行機でブエノスアイレスへ戻ってきた。
 はじめの予定では、この日、コルドバからロサリオに移り、ここでの第3組コロンビア対ボリビアを取材するつもりだったが、大阪の会社との連絡の必要もあったし、アルゼンチンのビラルド監督にも会っておきたかったからだ。
 案内してくれた北山氏はブエノスアイレスで手広く事業を営み、また日本サッカー協会の海外委員でもあって、アルゼンチン・サッカー協会にも知己は多い。ちょうど、この日にブエノスへ到着したばかりの牛木素吉郎氏、沢辺克史カメラマン、それに高橋英辰氏らと一緒に保養所まで来ると、門が閉まっている。守衛は「練習は休み、記者もきょうは入場できません」というのを、北山氏が、監督に連絡させてOKをとったのだった。

 ビラルドさんとは、87年1月に彼が南米選抜の監督として来日して以来半年ぶり。気さくで飾らない人柄で、早速、建物のなかを見せながら説明してくれる。
 グラウンドとテニスコートがある以外は、日本式のゴチャゴチャした付帯設備は無い。3階建ての大きなロッジ風の建物に、ホールと広い食堂があり、小部屋もいくつかある。野外用のアサド(焼肉)の設備があるのがアルゼンチンらしく、マラドーナのお父さんもやってきて、腕をふるうとか――。
 宿舎は平屋で、廊下を挟んで両側に部屋がある兵舎風――。


46ヘクタールのトレセン

 こんどつくるのは、こんなのではなく、3室ずつ程度のコテージを散在させて――とビラルドさん。いまは借り物の合宿所だが、アルゼンチン協会では、やはりエセイサ地区に協会専用、それもナショナルチーム専用のトレーニング・センターをつくる計画で、ちょうど設計の段階。政府が45ヘクタールの土地を貸してくれるから、代表チームの他ユース代表、ジュニア(16歳以下)代表もいつでも必要な時期に使えるようになるという(現在、工事にかかっているそうだ)。
 1ヘクタールはざっと3,000坪、1万平方メートル。4ヘクタールあれば、1,000人くらいの学生のいる校舎とかグラウンドがつくれる規模だから……。
「フィールドは6面程度だが、他のスペースは林や池を配して、選手たちが静かな環境のなかで心が休まるようにしたい」。やっぱり、トレーニング・センターはグラウンドや宿舎などの設備だけでなく、静けさや広さも大事なんだと、ビラルドさんはいう。
 まあ、土地の広大なアルゼンチンと、ベラボウに土地の値段の上がっている日本では比較のしようがないが、それにしても、ちょっと差がありすぎる。


気心あったビラルド一家

 練習は休みでも、何人かは、自分で体を動かしていた。軽く走っている者、ボールリフティングする者。やがて、グラウンドにロープをはり、小さなコートをつくってバレーボールを足でやり始めた。4人ずつだったか。ロープが1メートルくらいの高さなのではじめフットテニスかと思ったが、ボールを落とさないようにしているから、これはフットバレーだなと見ていると、マラドーナも加わってきた。
 ロープ際へ出てきて、スパイクするのでなく(バレーボールでいえば)トスする役に回り、胸でのトス、頭でのトスをピタッ、ピタッと味方に渡す。
「選手一人ひとりの調子はベストではなさそうですネ」というと、「大会開幕前はチームは50パーセントまでいっていなかった。1試合して、今は少し良くなったが……」
 ビラルド監督のスタッフは、協会の19歳以下、23歳以下の代表チームを担当するカルロス・パチェメ(コーチ)、フィジカル・トレーニング担当のリカルド・エチェバリア(トレーナー)、それにドクターのラウル・マデロ博士。マデロ博士は、ビラルドさんと同じチームでプレーをしたサッカー人。そして監督と同じ大学で医師の勉強をした。
 エチェバリア・トレーナーはビラルド監督とデポルティーボ・カリ(コロンビア)、サンロレンソ、エスツディアンテスなどのチームで一緒に仕事を続け、エスツディアンテスが優勝(82年)し、その実績を認められて、ビラルドさんが代表チームの監督となったときから代表チームのトレーナーとなった。彼は、自分と違って、やさしくて、朗らかで、選手の良き友人になってくれるのがいい、と監督はいう。
 こうした、気心の分かった、いわゆるビラルド一家の総力で代表チームを強化していくのだが、今回は彼らの優れた力を結集しても練習期間などの関係で、必ずしもチームは万全になっていないようだった。


マラドーナとカニーヒア

 翌日、7月2日、リバープレートのアルゼンチン対エクアドル戦は、アルゼンチンが3−0で勝った。
 何しろ、1組の開幕試合でペルーと1−1で引き分けている。そのペルーのエクアドルとの試合は7月4日。準決勝へ出るためにはエクアドル相手の得点差が問題となる。だから、この試合では、取れるだけ点を取らなければいけない。
 そんな意気込みで、アルゼンチンは、はじめから猛烈な勢いで攻めたが、なかなかシュートが入らない。
 マラドーナから短い、いいパスが出ても、受け手のポジションが悪いのが目につく。ことに、彼が左サイドへ出た場合、相手は厚いマークをするので、ほんの小さなスペースからパスを出す。いきおい、ボールはニアポストへ来る。それを相手DFの前へ走り込んでくる者がいない。それは、入ってくるプレーヤーの性格なのか、あるいは、相互理解が足らないのか、とにかく、中盤で優位に立つアルゼンチンに対して、エクアドルのゴール前は人数が多くなる。その多数守備を破るためには、人をかわすだけでなく、相手の前へ入った方がいい場合があるのに――。

 それにしても南米で一番小さな国エクアドル、人口800万人、登録プレーヤー6,000人のこの国の代表が、世界チャンピオンで自他ともに許す大国アルゼンチン代表に食い下がるのには感嘆する。点を取るのに苦しんだアルゼンチンは、後半アルフォロに代わってカニーヒアが出てきてから鋭さを増す。足も速いが、ドリブルの速さがすごい。
 そのカニーヒアのヘディングで5分に1点を取り、次いで、カニーヒアの突進からペルクダニがボールを受けたところをファウルされてPKとなり、マラドーナが決めて2−0(25分)。そのすぐ後に、マラドーナのFKや左からのクロスがゴールを脅かしたが、得点にはならず、2点差では心細いなと思っていると、40分にとうとうマラドーナのFKが決まって3−0となった。
 ペナルティエリアのすぐ外、中央右寄りで、エクアドルのつくった7人の壁を前に、マラドーナは3歩ほどの助走で左足を振ると、ボールは壁を越え右隅へ――。
 マラドーナはやはりマラドーナだな。そう納得したが、果たして十分なのかどうか――。アルゼンチンのサポーターにとっては2日後のペルー対エクアドル戦が済むまでは気がかりなことだろうと思った。
 そのエクアドルがペルーを苦しめ、また、次の日、わたしはコルドバでブラジルの大敗を見る。まことに南米で見る、南米同士のサッカーの驚きはこの後も続くのです。


(サッカーマガジン 1988年5月号)

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