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第4回 少年の日に読んだW・H・ハドソン。広い平坦な空間の感覚がいまもわたしの心に残っていた


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 後期の日本リーグは読売クラブの調子上昇もあって、活気を取り戻そうとしています。観客の数は、オリンピック予選の敗退などで必ずしも多くないようですが、技術が高く、迫力があるゲームをすることでファンにアピールできるでしょう。春とともにリーグに新しい芽の吹くことを願っています。
 コパ・アメリカ、南米選手権の旅は、1次リーグの終盤、ロサリオへ。往復650キロの日帰りトリップです。
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パラナ河の岸、アサードの店で

 パラナ河の茶色っぽい水の上に貨物船がとまっていた。岸からどれくらいあるのか、目測で300メートル? 船の向こう側に、緑の島があった。奥の調理場から、肉を焼くいい香りがしていた。
 1987年7月5日、午後、わたしたちはロサリオ市のレストラン「カルリートス」でアサード(焼肉)ができるのを待っていた。
 6月27日に始まったコパ・アメリカ、南米選手権大会は、3グループに分かれた1次リーグのうち、ブエノスアイレスを会場とする第1組と、コルドバでの第2組の各3試合は終わり。
 第1組では、アルゼンチンがペルーと1−1、エクアドルと3−0で、1勝1分けでトップ。準決勝に進んでウルグアイ(前回優勝チームで、いきなり準決勝へ出る)と対戦することになり、第2組からはチリがベネズエラを3−1で破ったあと、“天才”のブラジルに4−0と大勝してベスト4に入った。
 そのチリの準決勝の相手が、この日、午後3時からロサリオで行なわれるコロンビア対パラグアイ戦で決まることになっていた。


大平原パンパ、W・H・ハドソン

 ロサリオはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスから320キロ、日本でいえば東京から名古屋あたりか。飛行機の便数が少ないので、自分の車で送っていこうという北山氏の好意で、取材の日本人仲間たちと長距離ドライブでやってきた。
 午前9時にホテル・パンアメリカーナへ迎えに来てくれた北山氏は、別のホテル・エル・コンキスタードルで仲間を集め、120キロのスピードで北上した。
 沢辺、川本らのカメラのプロたちは、スタートの前には、パンパの大草原で悠々たる放牧の牛の姿が撮れるぞ、アルゼンチンらしいいい写真ができる――などと期待していた。確かに、牛はいた。草原は素晴らしく、見渡す限りの平坦。道路のはるか向こうに森があり、林があり、ところどころに牛が群れている。といった風景はあるのだが、ハイウェーから遠くに離れた100頭ぐらいの群れでは、周りが広すぎて絵にならないという。
 1年前にワールドカップの行なわれたメキシコも、思っていた以上の広大さに驚かされた国だが、メキシコシティ一帯の台地は石灰質で、水が地表に少なく河らしい河を見なかったのに、いたるところに湿地があり、池があり、流れがある。
 少年の頃読んだウイリアム・ヘンリー・ハドソンの「はるかな国・とおい国」は、神戸という背後は六甲山、前に大阪湾を控えた狭い坂の町に住むわたしに、大平原の果てしない広さを空想させたものだ。
 寿学(じゅがく)しづ先生の流麗な翻訳の岩波文庫版に出てくる、鳥や獣たち、ハドソンが愛したパンパの風物の一つひとつはほとんど忘れてしまっているのに、ただ、その広い平坦な空間の感覚がいつまでもわたしの心に残っていた。
「パンパは、たいていこの場所では玉突台のように平らです。しかし、わたしたちが住んでいたところでは地勢に起伏があって、わたしたちの家はその最も高い丘陵の頂上にたっていました。家の前には、地平線と同一平面の大草原が目路はるかに広がっており……」と、書かれたハドソンの生家と、この日走ったロサリオへの道とははるかに隔たっているはずだが、地平線の同一平面の大草原が、目路はるかに広がっているという形容はそのまま当てはめることができた。
「水がいいから、草がいい。草がいいから牛は自然に育ち、その肉はうまい」とは、アルゼンチン在住18年の北山氏の言葉。このレストランの名物、炭火で焼いた肉は確かにおいしかった。ついでながら、5人で焼肉(アサード)、サラダ(エンサラーダ)、チリスコ(ミートパイの一種=エンバナーダス)、それにビールやミネラルウォーターを飲んで52.1アウストラル(約3,500円)という値段も、今の牛肉自由化問題の折りから書き加えておくべきだろう。


スマート!! コロンビアの展開

 さて、コロンビアとパラグアイの試合。パラグアイ、ボリビア、コロンビアの3ヶ国リーグの会場となったロサリオ・セントラルのスタジアムは、78年のワールドカップで近代的に改装し、収容人員3万4,954人。
 そのうちシート席が1万6,372。記者席702、役員席362となっている。  ワールドカップでは2次リーグで、アルゼンチンがポーランド、ブラジル、ペルーを相手に戦い超満員となったところだが、今度の大会ではガラガラ。
 それでも、準決勝進出がかかったのとで、ざっと5,000人が観戦。すけすけの記者席の後ろでは、コロンビアの放送局カラコル・ラジオのウーゴ・イジェラ氏のアナウンスが響いていた。

 パラグアイは、1979年ワールドユースでロメロたちが神戸で試合をして以来、顔なじみになっているし、また、87年1月の南米選抜対日本リーグ選抜のゼロックス・スーパー・サッカー(ユニセフ40周年記念)でも、GKフェルナンデスやDFのジャケ、デルガド、トラレス、FWのパラシオスらが来日しているので身近な感じがする。知った顔が多いとつい応援したくなるが、試合が始まってみると一人ひとりがなんとなく重い。一方、コロンビアはこの大会で初めて見るチームだが、金髪のMFバルデラマのキープとパス、それを助けるレディンとオープンへの展開のうまいイグアランらがパラグアイの守りをかき乱す。
 開始4分後の先制ゴールはそのイグアランがバルデラマとのワンツーから抜け出てペナルティエリア・ラインからシュートしたもの。2点目は2トップの一人、ガレアからのヘッドのパスを受けてGKフェルナンデスの右下を抜いた。
 イグアランは後半5分にも3点目を決めてハットトリックとなったのに、パラグアイは前半の攻撃でハイクロスをコロンビアのGKイギータに防がれ、後半のパス攻撃はチャンスをつくったもののシュートに失敗した。
 オフサイド・トラップを仕掛ける相手DFラインに対し、狭い地域を通すパス、あるいはドリブルでのすり抜けはやはりプレーヤー一人ひとりの調子が揃い、気分が合っていないと難しい。
 その点、コロンビアは攻撃の起点がはっきりしていて、バルデラマがボールを持ったときの味方の集散、彼へ寄る者、相手から、彼から離れオープンスペースへ動く者――などの展開がまことにスムーズだった。


暗いハイウェーで考える南米の謎

 試合が終わって、スタジアムを離れ市街地を離れたのが5時半を過ぎていた。
 暗いパンアメリカン・ハイウェーをブエノスアイレスに向けて疾走する車のなかで、仲間たちとおしゃべりをしながら、ブエノスアイレスとコルドバとロサリオとを飛び回った1次リーグの9日間を振り返った。
 アルゼンチンはチームの状態は86年のメキシコ・ワールドカップには遠いが、ともかく準決勝に残ったこと、調子はもう一息でも、決して弱くないはずのパラグアイが、これまたコロンビアに見事に負けたこと。
 南米で見る南米のサッカーは、いつもわたしを驚かせる。そういえば、わたしの概念ではペルーとエクアドルとではペルーの方が上であるはずなのに、エクアドルの頑張りでペルーが1−1にするのがやっとという試合もあった。
 これまでワールドカップ予選などでブラジルやアルゼンチンなどの大国が、薄氷を踏む試合ぶりなどと書かれたニュースをときに読んで不思議に思ったのだが、ここへ来て見ると、こうした世界のトップに立つ国の代表チームでも決して楽に勝てないことが分かる。
 その理由は何なのか――。
 わたしは、南米のサッカーを考える楽しさと難しさ、そして準決勝からのゲームへの思いに、帰りの車中でもほとんど眠ることはなかった。


(サッカーマガジン 1988年6月号)

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