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第5回 ウルグアイ対アルゼンチンは南米で最もクラシックで歴史的な対戦の一つである


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 日本リーグのヤマハの優勝が決まりました。1980年に1部リーグに進出してから8シーズン目、杉山総監督はじめ皆さん、おめでとう。
 コパ・アメリカ、南米選手権の旅も、そろそろ終わりに近づき、大会のセミファイナルに入ります。
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独立記念日のミサ

「ああ、きょうは独立記念日なんだ」
 テレビの画面に、アルフォンシン大統領や閣僚が教会のミサに出席するシーンが映るのを見ながら、つぶやく。
 1987年7月9日、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスのホテル・パンアメリカーナ。  朝の便で、コルドバから帰って来たばかりのわたしは、バッグを開け、メモを整理しながらテレビのスイッチを入れたところだった。
 6月27日から始まったコパ・アメリカは7月5日までに3組の1次リーグを終わり、準決勝に入っていた。
 前日の7月8日、朝の飛行機でコルドバに飛び、午後9時30分からのチリ対コロンビアを観戦し、その夜はコルドバに泊まり、この日のウルグアイ対アルゼンチンのために戻ってきたのだった。
 7月9日といえば、ホテルの前の大通りは「アベニーダ・ヌエベ・デ・フリオ」。つまり、7月9日通り。独立記念日をその名にしている。
 もっとも独立記念日は他にもある。5月25日がそうだ。1810年5月25日に、アルゼンチンの各州がスペインから独立を宣言したのだが、ブエノスアイレスだけが利害が一致しないためにこれに加わらず、6年後の1816年7月9日に完全な形で独立したのだという。
 その独立記念日の行事として、この日は教会のミサに続いて大統領の閲兵や軍隊の行進が予定されている。


チリとコロンビア

「なるほど、だから今日は休日で、キックオフは午後3時からなのだ」と、改めて思う。
 そういえば、子どもたちは今日から学校は2週間の冬休みに入る――といっていた。
 昨日は休日ではなかったから、キックオフも午後9時30分という遅い時間だった。
 しかも、試合が90分で終わらず延長になってしまったため、試合終了後、迎えに来ているハズのタクシーが見当たらず、冬の深夜に、スタジアムの外でしばらく車を待つハメになったのだった。
 それにしても――寒いコルドバの夜のゲームだったが、値打ちはあった――と思う。  いや、あるいは、コロンビアとチリの今度の2つの代表チームを見て、この2つの国への関心を強くしたことだけでも、今度のわたしの旅の収穫かもしれない――などと思う。

 前日の試合のはじめ90分は、コロンビアが優勢だった。バルデラマを軸として、横に並んだDFラインを通り抜けるスルーパス、それを追うレディンやイグアランを、赤いユニフォームのチリが豊かな運動量で防ぐ。防ぐということではこの大会で随一のGKロハスが、先のブラジル戦と同じようにピンチをかわす。
 コロンビアの変幻自在の攻め、チリの左サイドいっぱいに開いた幅の広い攻めは、それぞれにチャンスを生みだすが、得点のないままに延長に移る。
 得点は延長前半の13分、デアビラのドリブルをチリの2人がはさんでPKとなり、レディンが右インサイド・キックで右隅へ決めた。
 試合の流れから見て勝負ありかも、と思ったら、どっこい、延長後半になるとチリが、1分に右CKからアステンゴのヘッドで同点にした。コロンビアGKが飛び出しながらパンチしなかったのが痛かった。その3分後に、サルガドからのパスをベラがヘッドで決め逆転した。


新しい力の誕生

 チリという南米の太平洋岸にある細長い国は、日本の約2倍の広さに人口は1,000万人少々。
 サッカーでは1962年のワールドカップ開催国、それも1960年の大地震の打撃でローマ・オリンピック(1960年)には選手団を送れなかったのに、世界に約束したワールドカップは見事に運営し、また、代表チームは3位に入賞してホスト国の意地を見せた。
 日本にもかつて、ウニオン・エスパニョーラというチームが来て、しっかりしたプレーを見せた。一人ひとりの体の使い方が上手で、骨組みのしっかりした――という感じで、南米ならば“軽快”とばかりに考えていたのとちょっと違った印象だったのを覚えている。いま神戸に住んで、チリ料理のレストランを経営しているダゴベルト氏がチリ海軍の出身で、同国の美しい帆船「エスメラルダ」が神戸にやってくると大歓迎する。
 わたし自身、チリへは行ったことはないが、チリ・アンデスへは若い山仲間が登りに行ったこともあり、そのとき土産に買ってきてくれた本がわたしには最初のスペイン語のサッカーテキストだった。

 コロンビアは、1986年のワールドカップ開催国に決まっていたが、結局、経済的な問題で辞退したのだが、南米大陸の一番北にある国で、パナマ地峡の根っこにあたる。面積は日本の3倍もあり、人口も2,650万人で、国土の大きさや人口からゆくと南米ではブラジル、アルゼンチンに次いで3番目だ。
 ここにサッカーが導入されたのはカリブ海の港町バランキリヤから。英国人船員やヨーロッパの商人たちが今世紀のはじめに持ち込んだらしい。1924年、つまりわたしが生まれた年には、大西洋リーグ(L・F・A)がバランキリヤに設立され、これが1936年、コロンビア・サッカー協会(ASOCIACION COLOMBIAN de FUTBOL)となり、はじめ中米やカリブ海諸国との関係が強かったのが、1940年から南米連合に加盟し、1957年からコパ・アメリカにも参加するようになった。南米のクラブ選手権のリベルタドーレス杯にも1960年から参加している。
 こんなコロンビア・サッカーの概略を教えてくれたのが、大会の放送のために来ていた同国ラジオ局のコメンテイターのイレラ氏。
 氏によると、コロンビアはここしばらく青少年プレーヤーの育成、強化に取り組んできた成果が表れ若手が育っているとのこと。今度の代表はナシオナル・メデリンのプレーヤーを主に編成されたが、ここへ来ているのと同じレベルのプレーヤーがまだ30人くらいはいる、とイレラ氏は自慢していたが、各クラブに少年チームの育成を義務付けたというコロンビア協会のやり方が今後続くようであれば、パラグアイやウルグアイなどと違って、コロンビアは人口も多いから、これから強くなるかもしれないナ、などと思うのだった。


伝統の一戦、試合の歴史

 独立記念日の行事である、大統領の閲兵、行進に参加したアルゼンチン軍の精鋭たちが、ホテルの前で解散するのをしばらく見たあと、リバープレートへタクシーで出かける。
 チリとコロンビア、なじみの薄い両国の対戦と違って、この日の準決勝はウルグアイ対アルゼンチン。南米での、最もクラシックで最も歴史的な対戦の一つである。
 なにしろ、アルゼンチンとウルグアイの対戦は158試合、アルゼンチンが70勝、ウルグアイ40勝、引き分けが48。得点はアルゼンチンの247、ウルグアイ186だ。
 ただし、南米選手権での対戦となると、アルゼンチンの7勝2分け9敗で、ウルグアイの方が勝ちが多い。
 そんな伝統を反映して、スタンドはぎっしり。競技場のレストランも超満員となった。

 紺のユニフォームのアルゼンチンと白のウルグアイ。1年前の6月16日、メキシコのワールドカップでプエブラで両国が対戦したときと同じユニフォームの色。
 前年のメンバー7人を持つアルゼンチンが、マラドーナのパスで攻める。それをウルグアイががっちりと受け止める。前年の顔はグチエレス(CB)とFWのフランチェスコリの2人だけ。若いプレーヤーも入っているが、ウルグアイの伝統なのか、守りに入るとみな落ち着いて見える。
 マラドーナからの再三のクロスを防いだウルグアイが、アルゼンチンのパスを奪って1点を決めたのが前半41分。フランチェスコリが、相手を引きつけてオープンへ流したボールをアルサメンディがノーマークでシュートした。
 ほんの一瞬に生じたすきを突かれたアルゼンチンは後半もマラドーナを軸に攻めるが、リードに気を良くしたウルグアイの守りはまことに堅い。マラドーナのFK、フネス、クシューフォなどの飛び込みも決定打にならず、90分間ついにゴールを割れなかった。

 試合の最中、後半になって、記者席の近くで観客がもめていた。収容7万5,000人のリバープレートだが、どうやら余分に入場券を出したらしい。切符を持って入ってきたら、既に先に人が入っていてもぐりこむ余地もない。試合を見ている者も(アルゼンチンが)負けているから気がたっている。そこでケンカになる――。
 競技場の外でも、試合後に騒ぎがあったらしい。自動車が何台か壊され、全部で35人が逮捕されたという。
 独立記念日のめでたい日に、世界チャンピオン・アルゼンチンが宿敵ウルグアイを倒してコパ・アメリカ決勝進出を果たせば、大会は一気に盛り上がる――。
 この大会を計画し、日程を設定したアルゼンチンの役員たちは、おそらくこう考えたに違いない。
 残念ながら、その期待は外れ、決勝はウルグアイとチリという顔合わせになった。


(サッカーマガジン 1988年7月号)

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