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第6回 心とリュックの中身を整理する仕事は、この旅シリーズが終わってもしばらく続く


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 キリンカップはフラメンゴが優勝し、ジーコを軸にした若いブラジル人たちのテクニックと身のこなしの早さ、戦術的理解の高さなどを、わたしたちに見せてくれました。
 ここ4年間のキリンカップに南米とヨーロッパからいいチームが参加していますが、うち、南米・ブラジルチームの優勝が3回となります。試合を見に来た、たくさんの少年たちやその指導者たちが、彼らの技術をどのように吸収してくれるか楽しみです。
 さて、南米選手権(87年6月27日〜7月12日)コパ・アメリカの旅は、この号が最終回です。
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ノースウエスト001便で

 窓の外に赤茶けた大地が広がっていた。1987年7月16日、定刻より1時間遅れてロサンゼルス空港を離陸したノースウエスト航空001便は北北西に進路をとり、カリフォルニアを縦に突っ切っていた。
 右の窓からシェラネバダ山地と、その向こうに広がる台地が見えた。その圧倒的な量感、憎々しいほどの大きさと荒々しさが、いつの間にか懐かしく感じるようになったのに気づくのだった。
 前年のメキシコ・ワールドカップのときも東京−ロサンゼルス経由の飛行だったし、今度のブエノスアイレスへの往復もロサンゼルス−メキシコ・シティーリマ(ペルー)を通るルートだった。それまで2回の南米ゆきは東京−ワシントン−リオ−ブエノスアイレスだったから、これでアメリカ合衆国の大西洋側と太平洋側を二度ずつ飛んだことになる。

 アルゼンチンに南米の10ヶ国の代表チームが集結したコパ・アメリカは4日前に終わっていた。6月24日に大阪を出て、いったん西を向いて香港へ飛び、次の日、東へ反転することで始まったわたしの24日間の旅も終わりに近づいていた。
 例によって、飛行機のなかはわたしにはメモの整理のチャンス。足元に置いたバッグからノートを取り出し補足をしてゆく。
 そのノートにアルゼンチン協会からもらった86年ワールドカップ優勝の記念広報がはさんであった。
 16ページの小冊子ながらA4版でメキシコでの勝利の足跡が写真とともに記載され、最終ページには「FIFAトロフィーを持つマラドーナをねぎらうアルフォンシン大統領」と「大統領官邸前の広場に集まり、代表チームに歓呼を送る市民たち」の2枚が組み合わされていた。


決勝は格闘戦! ファウル67

 今度のコパ・アメリカも勝てば、このような情景になったのであろうが――などと思いながら、大会を振り返る。
 準決勝でウルグアイに敗れた(0−1)アルゼンチンは11日の3位決定戦でコロンビアと戦い、1−2で負けた。
 コロンビアはこの大会でのわたしの“驚き”の一つ。アルゼンチンとの試合は互いに高いテクニックを見せて面白かったのだが、圧倒的に攻めたアルゼンチンはシュートが外れることが多かったのに、半分くらいしかシュートのないコロンビアは7本のうち4本までがいいところへ飛び、2本がゴールを破った。
 シュートが不正確というのは、それだけの技術に達していないのかもしれないが、今度のアルゼンチン代表にはバルダーノ、ブルチャガといったオープンスペースの使い方の上手な者がおらず(彼らは斜めに、走り上がった)動きは早いのだが、単純な縦への突進が多かった。そのためチーム全体に“間”(ま)あるいは“ため”をつくることができなかった。
 試合の後半に霧でボールが見えにくくなったのも不運だろう。普通なら、あれほど攻め込めば相手の動きの落ちる時間帯に得点機が増えるのだが、その頃に霧でプレーが難しくなったのだから――。

 その翌日、7月12日にウルグアイとチリの決勝を見た。
 3位決定の高速のなかでの技術の応酬とは違って、これはタイトルをかけて闘志むき出しの格闘技だった。
 ちょっとしたファウルをいちいち気にしていたら試合は進まないだろう、と思うほど、ちょっとした競り合い、ボールの奪い合いには必ずといっていいほどの“からみ”が入る。腕をからみ、足をからむ、その接触だけで倒れてもいいのだが、さすがに、はじめのうちはそれを振りほどきボールへのプレーに変えてゆく。しかし、自分が今度、半歩あるいは何分の1秒か不利になったとみると、きちんとからんで妨害に出る。それを相手は何とか振りほどこうとする――といった調子。
 わたしが勘定をした前半のファウルは、ウルグアイが19、チリが18。
 チリの5個目のファウルはウルグアイのベンゴエチェアに対するチリDFのゴメス。この激しいタックルにアルッビ・フィリョ主審(ブラジル)は黄色カードを示す。そのゴメスが15分に、タッチライン沿いにフランチェスコリの足を払って倒して、今度は赤カード、退場となった。

 11人対10人と断然有利になったハズのウルグアイだが、26分に今度はフランチェスコリが退場となる。アルサメンディがドリブルして倒されたときに、フランチェスコリが、倒した本人を手で突いた。その前に彼は後方からタックルをされてだいぶ頭にきていたらしい。
 10人対10人の活発な攻め合いは、後半も10分ばかり続いて、16分についにウルグアイが1点をもぎ取った。ペルドーモの強い左のシュートを大会随一のGKロハスがはじき、ベンゴエチェアが、これを逃さなかった。
 先取点を取ればこちらのもの――という感じが、ウルグアイのチームにみなぎってくると、相手には始末が悪い。
 双眼鏡で見るわたしは、どうやって攻め込むかと同時に、それをどういうタイプのファウルで防ぐのかをメモにつけようとするから、ノートはやたらと汚い字で埋まってゆく。後半の反則は、ウルグアイ15、チリ13。
 タイムアップ直前の両チームの最終ファウルでウルグアイのペルドーモとチリのアステンゴの2人に赤カードが出され、試合終了の笛の鳴ったとき、両軍は9人ずつしかいなかった。


ビラルドさんのビデオ

 翌13日、わたしはプラザ・ホテルへ南米連盟のニコラス・レオス会長を訪ねた。
 このホテルは78年ワールドカップのときと80年コパ・デ・オロの帰途に泊まったことがあるが、ブエノスアイレスで一番格式あるこのホテルは内部を大改装していた。いわゆるスイート・ルームは20人くらいの会議ができる部屋と寝室とがあって、その2部屋だけで、わたしたちが日本でいうマンション(本当はアパートというのだが)の一軒分くらいの広さがある。
 トヨタカップのときにレオス会長には会っているのと、87年1月のマラドーナと南米選抜招待の際に「ユニセフ創立40周年事業」として南米連盟に骨を折ってもらったお礼をいうためだった。

 昼に久しぶりの日本食で、日本からやってきた記者やカメラマンたちとお別れの食事。
 次の日にアルゼンチン代表チームのビラルド監督の自宅を訪れ、今度の大会の話やチームづくりなどを聞く。午後には、彼がいま世界中に見せたいと仲間たちとつくっているビデオのサンプルを見せてもらった。
 医者で元プロ選手で理論家で実戦派の彼がつくるサッカーのチームワークや技術を説くビデオは、ひそかに期待していたとおり(パイロット・ビデオを見る限り)十分面白く、前から私自身でつくってみたかったやり方でもあった。
 例えば、アルゼンチンがワールドカップで成功した戦術の一つに、バルダーノやブルチャガが第2列、すなわち後方から第1列へ駆けあがってゆくときに、フィールドを斜めに走り抜けるのがあった。このため、相手のディフェンダーのマークが緩むのだが、それを、戦術として訓練したのかどうか(82年のイタリアもカウンターでこういう動きがあったが、それはロッシ独特のように見えたので……)を知りたかったのだが、今度聞いてみたら、やはり、一つの作戦として練習のときにもシミュレーションをやっていたらしい。そんなことも、このビデオでみなに見てもらうのだという。


旅の終わりに

「昼食の用意をします」。スチュワーデスのきれいな英語で、回想は中断する。
 牛ヒレ肉のステーキ。ホウレン草とパパイヤ、キウイ添え、となかなかの豪華版。
 そう、15日の午後9時にブエノスアイレスを飛び立ち、アルゼンチン航空機で、リマ、メキシコ市を経てロサンゼルスに朝8時に着き、この機に乗ったのだった。
 メキシコ市の空港では夜明けのポポカテペトルの美しい山容が素晴らしかったし、アメリカとメキシコとの国境近くの砂漠と、カリフォルニア湾、カリフォルニア半島の景観がまことに雄大だった。

 それにしても――と食後のコーヒーを飲みながらわたしは思う。
 今度のコパ・アメリカは、わたしには何だったのか。南米のプレーヤーのプロ意識のすさまじさ。世界チャンピオンのチームでもコンディショニングが悪ければ勝てないこと。マラドーナは絶好調ではないが絶不調でもなかったが、86年メキシコは彼にとっての一回だけの頂点だったのか――。
 そんななかでも、カルロス・ビラルドというプロフェッショナル・コーチのいろんな面を見たこと、そのサッカーの考え方や指導の一端を知ったことなどは嬉しいプラスだった。
 東京オリンピックの前にクラマーさんが来日したとき、親しくなって、わたしは啓発されることが多かった。
 それから、何人かの優れたコーチ、指導者に会うことができた。そして、今また、世界チャンピオン・チームの監督と、サッカーを語り、聞くことができた。
 今度の大会は、欧米選手権やワールドカップのようなスーベニールは売っていなかった。わたしのバッグのなかにも大会の記念といえる物もあまりない。しかし、やはり地球の反対側までやって来ただけのことはあった――。
 山登りの人たちに、こんな言葉がある。「山から戻ってくるとき、リュックサックは軽くなっている。しかし、心のリュックサックは楽しい思い出に満ちている」と。
 その心と頭のリュックサックの中身を整理する仕事は、この“旅シリーズ”が終わっても、わたしには、しばらく続くことになる。


(サッカーマガジン 1988年8月号)

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