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左利きの本田圭佑の進化から。俊足、バネのある体で人気のあった草分け的レフティー 加納孝(上)


本田の左足の繊細なタッチ

 昨年のワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で16強入りした日本代表で、一躍声価を上げた本田圭佑が、今年1月のアジアカップ(カタール)でも日本代表の中核として素晴らしい働きを見せた。
 名古屋グランパスでプロのキャリアをスタートさせた本田は、オランダとロシアで実績を挙げ、2010年のW杯でも、左足のFKのゴールで世界を驚かせ、力強いドリブルで相手の脅威となり、ゴール前の落ち着いたプレーで日本に貴重なゴールをもたらした。
 今年のアジアカップでは、ザッケローニ監督の新しい采配の下に、攻撃の組み立てやラストパスの出し手としても非凡な才能を見せた。
 日本人選手の中で、力強さが一つの売り物である本田だが、左足の繊細なボールタッチで、ボールの強さ、高さやコースの曲がり具合を受け手を配慮して蹴り分けているところはまことに素晴らしい。
 そうした彼のプレーを見ながら、私は古い日本のサウスポー(左利き)の攻撃プレーヤーであった加納孝さん(1920−2000年)を思い出していた。
 今、左利きといえば、まずバルセロナのリオネル・メッシ(アルゼンチン代表)の名が出るだろうが、彼の先輩のディエゴ・マラドーナ(アルゼンチン代表、86年W杯優勝)をはじめ、ヴォルフガング・オベラーツ(西ドイツ代表、74年W杯)、ロベルト・リベリーノ(ブラジル代表、70年W杯優勝)といった名を挙げるまでもなく、W杯優勝チームをはじめ、世界のトップクラスのチームには、これまで多くの左利きの名選手がプレーをし、それぞれのチームで大きな役割を果たしてきた。日本では中村俊輔や名波浩が有名だが、それまで左利きは日本サッカーではむしろ珍しい存在だった。そう、名波に“レフティー”のニックネームがついたことが、その存在が得意だったといえる。


中学3年生で11秒台の俊足

 加納孝さんは1920年(大正9年)10月31日生まれだから、私より4歳年長。20年といえば、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の設立1年前のことだった。
 東京生まれの東京育ちで、荏原郡(現・大田区)の入新井小学校5年生のときにフットボールに親しみ、33年(昭和8年)、東京府立第八中学(現・都立小山台高校)に入学、2年生のときからレギュラーになった。当時は5年制の旧制中学だから、最上級生とは3年の開きがあり、また同じレベルの試合相手だった師範学校はさらに2歳年長者がいたから、2年生の加納少年にとって、たとえば青山師範のキャプテンであれば、5歳の開きがった。
 中学低学年の加納選手のレギュラー入りの理由の一つは俊足――本人の話では中学3年生の頃に100メートルを11秒4あるいは5で走ったという。もう一つは、ボールを扱うのが左足、つまり、当時では珍しかった「左利き」選手だったからだろう。
 左サイドを走って、左足で中へパスを出せることから、左ウイングとなる。39年、八中のレフティーは戦前の日本代表の宝庫ともいうべき早大に入る。すでに中国での戦争が始まってはいたが、日本サッカー界は36年のベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦での劇的勝利で、さらなるレベルアップを目指した時代。その中で加納選手はぐんぐんと能力アップした。
 私が初めて加納選手を見たのは、41年1月12日、甲子園南運動場で行なわれた朝日招待だった。第1試合で関東大学リーグ1位の慶大が関西2位の関大に8−1で快勝した後、関東2位の早大が関西1位の関学を5−2で破った。中学生であった私は、慶大のCF、二宮洋一の個人力とともに、早大の左サイドを突っ走る小柄なウイングに驚いたことを覚えている。ダッシュの速さもさることながら、ゴムマリのように弾む体――バウンドした高いボールをジャンプして左足のインサイドで止め、自分のものにする“格好いい”プレーに魅せられたものだ。
 この年の12月に始まった太平洋戦争は社会全体を苦しくし、スポーツもまた辛い時期に入るが、その戦中のブランクの後、大戦後の復興期のサッカーで、この小柄で俊敏な左利きのウイングは、年齢に似合わぬ“はげ上がった額”とともにファンに親しまれ、最も人気のある選手となった。
 50年ごろに東京でプロフェッショナルチームをつくろうという案があった。つぶれはしたが、そのときのメンバーに加納さんの名があったのはいうまでもない。


(月刊グラン2011年3月号 No.204)

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