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栄光の1979年

 第2次大戦後、パラグアイ・リーグ(サッカー協会)はアスンシオンに新しいスタジアムを建設し、代表チーム監督に戦術家のフレイタス・ソリッチが就任。南米選手権で47年、49年と2回連続して準優勝となった。そして、4年後の53年大会で初優勝。念願の南米チャンピオンに輝いた。

 チリを3−0、ボリビアを2−1で破り、エクアドル(0−0)、ウルグアイ(2−2)、さらには開催国のペルー(2−2)と引分けて、最終戦のブラジルに勝って(2−1)王座に就いた。アルゼンチンの不参加があったにしても“王国”ブラジル、“勝負強い”ウルグアイを押さえてのタイトルは、パラグアイ国民の大きな誇りとなった。

 1960年からスタートしたリベルタドーレス・カップ。つまり、南米のクラブ・チャンピオンを決める大会には、パラグアイは最初から参加。第1回大会はオリンピアが決勝まで進んで、ウルグアイのペニャロールと戦い、0−1、1−1で敗退した。この大会もアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルの南米御三家のクラブがタイトルの独占を続けたが、79年にオリンピアが三強以外の国のクラブとして初めて優勝している。

 功労者は監督のルイス・アルベルト・クビジャ。元ウルグアイ代表のウィングプレーヤーであり、また、アルゼンチンのリバープレートの選手として66年のリベルタドーレス・カップ優勝の経験を持つクビジャは、オリンピアの14度目の挑戦を成功させるために、まず、シーズンに入る前にトレーニング・キャンプを実施するとともに、1日2回のトレーニングを行なった。

 パラグアイでは、サッカー選手の収入は一般的にはアルゼンチンなどより低く、パートタイム・プロが多い。オリンピアとセロ・ポルテーニョの二つの名門の選手は、サラリーをきちんともらっているが、たいていのチームは、勝ち試合のボーナスが選手の主な収入というところだった。したがって、全体には練習量や時間も少なかったが、クビジャ監督はトレーニングを多くして、選手に技術や体力の自信を持たせた。これが成功して、シーズンを通じて調子を持続し、3月から始まり7月下旬に終わる、この頃のリベルタドーレス・カップにも勝ち抜くことができた。

 まず、予選第2組でボリビアのボリバー、ウィルスターマンと、同じパラグアイのソル・デ・アメリカと組んで、ホーム・アンド・アウェーの総当り戦を行ない、オリンピアが5勝1敗で4勝1分1敗のボリバー、2勝1分3敗のソル・デ・アメリカ、6敗のウィルスターマンを押さえて首位に立った。

 実力から見て、この結果は順当だったが、オリンピアは負傷者の多かった対ボリバーのアウェーで1敗すると、ソル・デ・アメリカにボリバーを食い止めてもらうよう5万ドルのボーナスで頼み込み、ソル・デ・アメリカは、対ボリバーのホーム戦を2-2で引き分けて、援護役を果たしたという話もある。

 グアラニ(ブラジル)、パレスティノ(チリ)との準決勝B組を3勝1分で勝ち抜き、決勝ではアルゼンチンの名門、ボカ・ジュニオルズをホームで2−0の快勝、アウェーは0−0と引分け理想的に勝った。

 この7月の南米クラブ・チャンピオンに続いて、8〜12月の南米選手権でパラグアイ代表チームが優勝するのだから、79年はパラグアイ国民にとって、この上ないハッピーな年となった。
(サッカーダイジェスト1991年2月号より)

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