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大戦中にもサッカーを続け、戦後の復興期に活躍。テレビで見せたかった“弾丸的”飛び込み戦中派レフティー 加納孝(下)


 いよいよリーグが開幕する。名古屋グランパスのサポーターとすれば、連続優勝を望みたいところ――。トヨタの企業チームであった頃から、このクラブの試合ぶりを眺めてきた私は、グランパスが今年もJの優勝を争い、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)で成果を挙げることで、日本のビッグクラブとsて、内外の評価が高まるものと期待しているのです。


凋落早大を再びトップに

 さて、本題に戻って、日本でまだレフティーが珍しかった頃、日本代表で最も人気があったプレーヤーの一人、加納孝選手(1920−2000年)の続きです。
 私の記憶にある最初の加納選手は、1941年(昭和16年)の朝日招待で西下してきた早大が関学大と試合をしたとき(前号参照)。当時、私は旧制神戸一中の4年生の3学期だった。加納選手は当時としては珍しいサウスポーで、ゴムマリのように弾む体がとても魅力的だった。
 39年に加納選手が早大の予科(早稲田高等学院、現・早稲田大学高等学院)に入ったときは、すでにベルリン・オリンピック(36年)の主力を務めた早大メンバーの多くが卒業していた。さすがにチーム力も落ちて、代わって台頭した慶応大が二宮洋一を中心とする強力FWを看板に、関東大学リーグの王者となり、日本のナンバーワンとなっていた。
 それでも早大は、加納選手たち若い力のレベルアップによって巻き返そうとしていた。関東大学リーグの予科リーグでは、早大が勝っていた。慶応はテンポの速いパスワークの攻撃が特色だったが、早大は粘りと力強さが伝統となっていた。

 加納選手は41年2月2日、東京・神宮競技場での第10回東西対抗の東軍に選抜されて出場している(関東3−2関西)。ベルリン・オリンピックに出場した川本泰三というベテランもプレーし、若い加納選手の評価は高まった。この41年という年は、12月8日に太平洋戦争が始まるのだが、その開戦まではまだ秋の関東大学リーグのスケジュールは普通に行なわれていた。慶応は、この年4月に卒業で二宮洋一たちが去り、今度は早大と東大の争いとなって、早・東が同率で1位となった。本来は東西大学1位対抗(大学王座決定戦ともいった)が12月に開催されるのだが、12月8日の“開戦”とともに中止となった。
 大戦は始まったが、次の年はまだ余裕があって、大学リーグは春に行なわれ、秋にはノックアウト制の選手権を行なった。早大は春は2位、秋には優勝した。
 43年1月の西宮球技場での東西大学1位対抗で早大は関学と対戦して、なんと10−0の大差で勝った。私が見たこのときの加納選手は、走れば突破というように関学の守りをズタズタに切り裂いた。


第1回アジア大会で3位に

 いささか、学生期の加納選手に行数を費やしたのは、戦中の時代にあっても、情勢が逼迫するまでサッカーの試合が行なわれ、戦中派の選手は厳しい環境ながらプレーをぎりぎりまで続けていたことを紹介しておきたかったからでもある。
 理工学部だったので軍隊にいかなかった加納選手は、1945年(昭和20年)、大戦終結の年に早大を卒業、早大WMW(早大現役選手とOBからなる混成チーム)と日本代表で活躍した。
 51年の第1回アジア大会(インド・ニューデリー)では、二宮洋一たちとともに3位となったが、54年の第2回アジア大会(フィリピン・マニラ)、ワールドカップ予選・日韓戦(東京)はともに成績が上がらず、国内に迎えたスウェーデンや西ドイツの強いセミプロとの試合でも勝つことができなかった。しかし、多くの観衆を集め、サッカーを次世代につなぐ架け橋となった。特に加納選手が左サイドを疾走し、長身の外国人ディフェンダーと1対1で競り合うプレーは人気を集めた。
 私自身も48年の朝日招待で早大WMW(3−3、対全神戸大)と戦い、3−2とリードしながら、加納選手の弾丸のような飛び込みで同点ゴールを奪われた。ボールに体を叩きつけ、自らもネットに絡まった姿を見ながら、こういう異能のプレーヤーと戦った喜びを感じたことを思い出す。旧制高校のインターハイのOB会でもプレーして皆を喜ばせた、この人が今のテレビ時代のJにもいたら……と思う。


(月刊グラン2011年4月号 No.205)

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