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世界の仲間とともに苦難の人たちへ心を届けよう ――東北関東大震災に思う――


ユニセフへ感謝のチャリティ試合

 マグニチュード9.0という、それも南北500キロ、東西200キロにわたる広範な地域での大地震と大津波による東北関東大震災は、3月11日の発生以来、日を重ねるごとに、その被害の大きさが明らかになっている。福島第一原子力発電所の被災は、この地震、津波災害の上にさらに難しい問題を加えている。
 長いキャリアのなかで、天災や戦災に何度か遭遇して、物事にそれほど動じなくなっているはずの86歳の老人にとっても、太平洋から壁のように盛り上がって町に押し寄せる大津波のテレビ画面は声も出ず呆然と見つめるだけだった。
 ご家族や友人を失った人たち、住居を破壊された被災者の皆さんには、申し上げる言葉もない。ただただ、月日と時間が、少しでも悲しみを和らげてくれることを祈るだけ――日本と世界の多くの人々がおそらく、思いを一つにして被災からの立ち上がりを応援していることと思っている。

 JFA(日本サッカー協会)は3月29日に大阪・長居でチャリティ試合を開催し、被災地域と被災された人たちへの公式メッセージとした。
 世界のスポーツであるサッカーは、各国それぞれに「不幸な人を助ける」チャリティマッチの考え方が古くからある。イングランドのリーグ勝者とFAカップ勝者がシーズン初めに試合するチャリティ・シールド(現・コミュニティ・シールド)は100年の歴史を持つ。FIFA(国際サッカー連盟)もまたユニセフ(国連児童基金)を通じて、あるいは独自で世界の恵まれない子どもたちへの援助を続けている。
 日本国内では1987年1月にユニセフ創立40周年記念として、ゼロックス・スーパーカップ、日本リーグ選抜対南米選抜(ディエゴ・マラドーナが南米のキャプテン)の試合を開催した。このイベントは電通と私が提唱し、JFAが主催して、収益金1,500万円をユニセフに寄付した。当時は、まだこうした催しに縁の薄かった日本だったが、当時の専務理事であった長沼健さん(第8代JFA会長)の推進力によって、開催は成功した。
 アマチュア時代、しかも低迷期といわれた1980年代にあって、日本が大戦直後の飢えの時期に食糧援助をしてくれたユニセフへの謝恩を忘れずに、当時のユニセフ大使だったディエゴ・マラドーナを主将とする南米選抜とのチャリティ試合をあえて引き受けた長沼さんたちサッカー人の気持ちは、日本のビッグスポーツとなった今も変わることはない。


関東大震災の悲しい記憶

 3月29日の日本代表対Jリーグ選抜の試合は、もちろん、多くの義捐金募集の意味もあるが、何よりもテレビや新聞を通じて、被災された人たち、困難な状況にある人たちへの「You Will Never Walk Alone」(あなたたちは一人ぼっちではない)という気持ちを伝えることにある。
 振り返ってみれば、日本サッカーはJFAが創立(1921年=大正10年)して2年の後、1923年9月のあの関東大震災に出合っている。協会設立に力を尽くして下さった英国人、ウィリアム・ヘーグさん(1891−1923年、第5回日本サッカー殿堂入り)は当時、横浜の英国総領事館副領事として執務中にこの震災のため亡くなった。そして、同氏を偲んでの追悼試合が行なわれた。また、この震災によって日本に留学中だったビルマ人、チョウ・ディンさん(1900年−没年不明、第4回日本サッカー殿堂入り)は東京高等工業学校(現・東京工業大)の校舎が倒壊して授業が中断されると、日本を巡回してコーチし、これによって、日本サッカーの技術力アップの功労者となった。
 全壊焼失家屋57万6,000戸余り、死者・行方不明者14万人余りという関東大震災のときにも、私たちはすでに世界と無縁ではなかった。

 長居の試合――イタリア人アルベルト・ザッケローニ監督の日本代表には、海外8ヶ国でプレーする12人がいた。今、シーズンたけなわの欧州の各クラブの理解あってのことだった。代表の実力者、31歳の遠藤保仁のFKで先制し、少年期に阪神大震災を経験した岡崎慎司が2点目を奪った。名古屋で長くプレーし、自ら祖国の苦難時代に耐えたストイコビッチ監督のJリーグ選抜では、リーグ創設期からのスター、44歳のカズ、三浦知良がゴールして会場を沸かせ“総力”の象徴となった。
 JFA90年の歴史のはじめから大震災に立ち向かってきた私たちは、今こそ、世界の仲間と心を一つにして、この大震災の復興に向かいたい。日本とサッカーとともに歩んできた老年は願っている。


(月刊グラン2011年5月号 No.206)

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