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自らもオリンピック、ワールドカップで働き日本の審判のレベルアップに尽くした 丸山義行(上)


 前号は番外編として大震災とサッカーについての話だった。原発のトラブルという長く尾を引く問題も残っていて、東日本大震災は日本全国だけでなく、世界にも大きな影響を及ぼす大災害となった。多くの人たちの努力で被災地の復興と原発問題の解決が進むことを祈りたい。
 震災といえば、私自身は1995年の阪神大震災の被災者でもあるが、その後16年の日本のサッカーの変化の大きさを思わずにはいられない。  98年のワールドカップ初出場、2002年の日韓共催のワールドカップを経て、この国のメジャースポーツとなったサッカーの国際試合の熱気はスタンドでの“国歌”となり、“ニッポン”の大声援となった。今回の大震災で期せずして“がんばれニッポン”の声が上がったのも、国際試合を通じて自分たちの“チーム(国)”を強く意識するようになったサッカー現象の表れという声もないではない。


ワールドカップでの日本人主審

 表題の『このくに と サッカー』に戻ろう。この連載の今回は丸山義行さん――1931年生まれのサッカーの虫、国際審判員としてオリンピックやワールドカップ(メキシコ大会=70年)などで活躍し、日本の審判のレベルアップにも力を尽くし、一昨年9月の第6回日本サッカー殿堂で表彰され、掲額された功労者でもある。
 先述の16年間の進化ではないが――Jリーグ、日本代表のレベルアップとともに日本の審判もまた国際的評価が高まり、2006年のワールドカップ・ドイツ大会では上川徹主審と廣嶋禎数副審が大会の3位決定戦(ドイツ対ポルトガル)を担当した。
 昨年の南アフリカ大会では西村雄一主審と相樂亨副審は1次リーグ3試合に加えて、準々決勝(オランダ対ブラジル)でもいい仕事をした。フェリペ・メロ選手(ブラジル)の反則に対して、レッドカードを提示した西村主審の判定と毅然とした態度は高く評価された。
 こうした世界のビッグゲームで日本の審判が活躍するためには、もちろん、それぞれの資質や努力が必要だったことは言うまでもないが、日本のレフェリー全般のレベルアップが基盤であり、そのためには長い年月の蓄積が底流となっていた。
 JFA(日本サッカー協会)は創設以来90年にわたって、そうした審判の育成と図ってきたが、丸山さんは中央大学卒業以来、77年に引退するまで審判を務め、引退後も審判委員長として後進の育成にあたったこの道の先達だった。


中大の選手からレフェリーに

 丸山義行さんは栃木県今市市生まれ。今市高校で冬はアイスホッケー、夏はサッカーに打ち込み、1950年、中央大学に進む。大戦が終わって5年――中央大サッカー部は小野卓爾(1906−91年、2006年 第2回日本サッカー殿堂入り)という傑出した先輩の指導で黄金期に向かおうとし、関東大学リーグの1部に入っていた。その頃の大学リーグは各校のOBが審判を務めることになっていて、丸山さんは54年に中央大を卒業してOBになると小野監督を手伝うコーチになるとともに、審判の仕事も受け持つことになった。
 56年にはJFAの1級審判となり、5年後の61年にはFIFA(国際サッカー連盟)の国際審判にも登録される。
 64年の東京オリンピックでは、線審(現・副審)として2試合を担当した。33歳のときだった。その2年前の第4回アジアユース大会には日本チームの帯同審判としてバンコクへも出かけ、海外での経験も積んでいた。
 東京オリンピックの翌年から新しく企業チームによる全国リーグ、日本サッカーリーグ(JSL)が始まった。メキシコ・オリンピックを目指す強化試合もあり、審判の仕事も多くなった。
 ソ連(当時)のトルペド・モスクワ(65年)スコットランドのスターリング・アルビオン(66年)ブラジルのパルメイラス(67年)といったソ連の強チーム、スコットランドのプロ、ブラジルのトップ・プロなどもやってきた。日本代表チームにとっての強化の相手であると同時に、審判、線審にとっても新しい経験となった。そうした各種試合の実績で丸山さんは68年のメキシコ・オリンピックに審判の一人として参加することになった。


(月刊グラン2011年6月号 No.207)

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