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国際試合60試合で審判を務め、中央大学のコーチ、監督を半世紀。傘寿のいまも試合に足を運ぶ 丸山義行(下)


 60試合の国際試合を含む21年間の審判生活と50年にわたる中央大学のコーチ、監督という稀有なボランティア・スポーツマン、丸山義行さん(1931年生まれ、第6回日本サッカー殿堂入り)の続き――審判としての功績にFIFA(国際サッカー連盟)審判特別功労賞、IOC(国際オリンピック委員会)感謝状などを受賞しただけでなく、2001年には国際ボランティア年記念の感謝状がIOCとFIFAから贈られた。


日本の勝利で2試合目の主審はなし

 今回は1968年10月のメキシコ・オリンピックでレフェリーを務めるところから。この大会は日本代表の銅メダル獲得で私たちにも身近だが、審判制度の上でも、今の観客にもなじみのイエロー、レッドカードを主審が示すようになったことでも知られている。この大会の審判は参加16ヶ国から一人ずつ帯同し、開催国のメキシコから6人、FIFA指名の3人を加えた合計25人が当たった。丸山さんは1次リーグC組のハンガリー対ガーナ(2−2)で主審を、D組のチェコスロバキア対タイ(8−0)の線審(現・副審)を務めた。
 すでに国際試合での主審の経験もあり、66年のワールドカップは観客としてウェンブリーでオリンピックよりハイレベルの試合を肌で感じていたから、「心にゆとりがあって、自分でも最高の審判ができた。FIFA審判委員のコー・エーティ氏が『よかった』と評価してくれた」。
 1次リーグの後、準々決勝のハンガリー(C組1位)対グアテマラ(D組2位)の主審も割り当てられたのは本人には嬉しいことだった。しかし、日本代表がベスト8に進出したため、もし、日本がフランスに勝てば、丸山さんの担当の試合の勝者と当たることになるので、そういう背景を持つ国のレフェリーは避けて、ペルーのヤマサキ主審に変更された。日本代表の快挙は素晴らしいことだが、「心残りもあるメキシコ・オリンピックだった」と丸山さんのリポートにある。
 このときの評価が70年のワールドカップ・メキシコ大会審判選考につながる。
 2月15日にFIFAの審判委員会が30人を決定し、アジアから丸山さんが選ばれた。大会は5月31日から6月21日まで。5月25日から29日まで審判のトレーニングメキシコ・シティで行なわれ、日本でおなじみのデットマール・クラマーが指導した。100メートルを13秒で走り、20秒でスタート地点に戻り、これを3回繰り返すというのもあって、なかなかハードだった。5日間のトレーニングで体調は整ったが、1ヶ月以上も前から現地に来ている審判もいた。高地順応を考えてのことだろう。


ワールドカップのピッチに立つ意味

 割り当てられたのは、レオン市でのグループリーグ4組。8ヶ国から来ている8人で担当したのは、6月2日のペルー対ブルガリア(3−2)と6日のペルー対モロッコ(3−0)の線審だった。このときの感想は「プレーの速さや強さは4年前にスタンドから見たウェンブリーとも違っていた。オリンピックでは落ち着いていたが、この試合のなかで笛を吹けるだろうかと思うと恐ろしくなった」と。
 大会ではペレのブラジルが3度目の優勝を遂げた。日本からJFA(日本サッカー協会)関係者が観戦ツアーを組み、何人かの記者も出かけたが、オリンピック銅メダルチームは釜本邦茂を欠いてアジア予選で敗退していたから、大会のピッチに立った日本のサッカー人は、丸山さん一人だけだった。このときの経験や各国審判との交流、見聞がその後の日本の審判力のアップに役立ったのはいうまでもない。
 46歳で審判の現場を離れても、JFAの審判委員会、規律委員会が待っていた。
 そうした審判関係とは別に、丸山さんは中央大学サッカー部の仕事もあった。偉大な先輩、小野卓爾さん(1906−91年、第2回日本サッカー殿堂入り)を助けて中大サッカー部を日本サッカーで大きな力を持つ大学クラブに育て上げた。地方でのサッカー普及と中大の浸透を図った夏の地方合宿を20年も続け、メキシコ銅の代表を生んだ。八王子に移った大学には芝生(現在は人工芝)のグラウンドも造った。
 JFAの役職を離れた傘寿のいまも、日曜には大学リーグに足を運んで試合を眺め、後輩の審判ぶりに目を注いでいる。


(月刊グラン2011年7月号 No.208)

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