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「坂の上の雲」の時代を身近に感じる85歳と語り合う歴史物語


「2014年のブラジル大会に取材に出掛けるのなら、手術をしましょう。良くなりますよ」
 MRIを撮ってもらい、その画像を見ると、改めて典型的な脊柱管狭窄症で、第3、第4腰椎と、第4、第5腰椎のそれぞれがずれていて、そのため神経が圧迫され腰痛の原因となっている。レントゲン撮影のときは第4、第5腰椎のずれだけだったのが、もう1ヶ所あることも明らかになった。
 もちろん、85歳という年齢相応の心配もなくはない。まずは秋の手術を目標にリハビリに励み、健康保持に努めることになった。軍隊時代の仲間から「オレも同じ症状だったのを今年手術して回復した」との激励も届いた。
 こんなふうに書きだすと、「心はすでにブラジルへ」ですね、と笑われそうだが……。

 新しい連載は、来年2011年が日本サッカー協会(JFA)の創立90周年にあたるところから『日本とサッカー、90年』でどうかと考えています。
 ここしばらく『記憶に残るストライカー』をはじめ“人”を取り上げることが多かったが、日本サッカーの流れの中で、エポックメーキングな試合や出来事を取り上げ、それが、今に、どのように関わっているのかをみなさんと一緒に眺めてみたいのです。
 司馬遼太郎という偉大な作家のおかげで、日本人の多くに歴史への興味が甦ってきたのは、まことに嬉しいこと。私自身、大阪の産経新聞の記者であったとき、広い編集局の中での机の並びが、たまたま文化部と運動部が同列となり、当時、文化部の次長であった司馬さんを、数メートル離れたこちらの席から眺める時期もあった。
 まだ文壇デビューの前だったが、福田定一(司馬さんの本名)デスクの『風神雷神』のコラムの格調の高さに目を見張ったものだ。

 その司馬さんの代表作の一つ『坂の上の雲』がNHKスペシャルドラマとして放映されるのはまことに素晴らしいが、若き秋山好古、真之兄弟を見ていると、とても懐かしく感じるのに気がついた。
 自分が若い頃は明治といえば、はるか彼方のことだった。今の若者にとっても105年前のことだが、1924年生まれで、軍隊生活も経験し、85歳となった私から見れば、日本海海戦は、私の生まれる、たかだか19年前のこと。17歳で太平洋戦争の開戦を知り、21歳で軍隊に入り、復員後に再びサッカーを志し、それを書くことを仕事に選んで60年の歳月を過ごしたことを思えば、秋山兄弟たちを身近に思うのも当然なのかもしれない。

 サッカーについての古い話を書いて、今の人たちと先人たちについて語り合いたいと、再び思うようになったのは、一つにはこの『坂の上の雲』への親近感――だったといえる。
 幸いなことに私は、旧制中学生の頃に1930年(昭和5年)極東大会で日本代表のウイングだった高山忠雄さん(1904−80年)に、縦に抜くドリブルを教えてもらい、36年ベルリン・オリンピック代表の右近徳太郎さん(1913−44年)にチョップキックを直接に習ったこともある。
“神様”竹腰重丸さん(1906−80年)は、私の兄・太郎の結婚式の仲人であった。
 日本サッカー殿堂に名を残した先達たち、あるいは、古い日本代表のヒーローたちの多くが私の身近な存在であった。何より昭和5年極東大会世代の代表的な語り部・田辺五兵衛さん(1908−72年)からは、その随筆や、膨大な図書資料、コレクションの保存、整頓などの相談を受けつつ、その博覧強記の一端を垣間見た。

 すでに故人となった長沼健さん(1930−2008年)は関西学院大の選手だった頃から、IOC委員の岡野俊一郎さんも同じ頃から、2人が協力して日本サッカーの興隆に関わる姿を見つめてきた。川淵三郎さんは、三国ヶ丘高校、早大へ入り、新人ながら力強いプレーで、大学王座決定戦で活躍した若い選手時代から、Jリーグの立ち上げ、JFA会長としての見事な手腕も眺め続けた。
 釜本邦茂、杉山隆一たち、東京、メキシコ世代は、高校の頃から国際的なプレーヤーとなり引退するまで。彼らが現役を去り、アマチュア時代、日本サッカーの不遇の時代のプレーヤーたちも、プロとなり華やかな93年以降のプレーヤーも監督たちも、私には大切な取材相手であり、サッカー仲間だった。

 たくさんの先輩や友人や若い仲間をつくってきた日本サッカーの90年、その流れを皆さんとともに身近なものとして語り合ってゆきたい。ときには私のウェブサイトとの併用も考えてみたい。
 ブラジルへ向かう前に、古きを訪ねる、この新しい連載に、ひそかに心を高めているこの頃なのです。よろしくおつきあいのほどお願いします。


(サッカーマガジン 2010年8月24日号)

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