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始まりは明治初期の英国海軍。極東大会敗戦が熱中期へのきっかけ


 日本サッカー協会(The Football Association of Japan、略称=JFA)の創立は1921年(大正10年)9月10日である。
 このスポーツが初めてこの国で行なわれたのは、それより48年前の1873年(明治6年)9月のこと。ところは東京築地の海軍兵学寮――のちに海軍兵学校となり、広島県江田島に移ったことはよく知られているし、プレーしたのは教官の英国軍人アーチフォールト・ルシアス・ダグラス少佐と、部下たちだった。このことは定説として、JFAの75年史にも書き込まれている。
 もっとも関西蹴球協会編『関西サッカーのあゆみ』(2006年刊)では明治4年3月4日の英字紙『The hiyogo news(兵庫ニュース)』に神戸の居留地(外国人の特別居住地)でフットボールが行なわれたという記事があったことを取りあげ、こちらの方が早いとしている。

 1993年のJ誕生や2002年ワールドカップ開催で、サッカー普及が進み、膨大な数の人たちが、この競技に関心を持ち、「サッカーことはじめ論」も賑やかになるのは楽しいが、東京と神戸に2つの事例はロンドンでフットボール・アソシエーション(FA)が創設(1863年)されてから、10年そこそこの頃の話。そのため、日本で行なわれたフットボールが、アソシエーション(協会)ルール、つまり、いまのサッカーの原型であるかどうかについては、まだ判然としていない。いずれにせよ明治維新から間もない頃の海軍の学校での、あるいは居留地での「サッカー」がすぐさま国内への広がりとはならず、JFAの設立までに約半世紀の月日が過ぎる。

 その半世紀に日本の社会は大きく変化した。
 教育制度の充実をはかり、憲法を制定し、欧米に追い付けを目標に日清戦争、日露戦争という大きな戦いを切り抜けた。多くの犠牲もあったが、経済は伸び市民生活も少しずつ向上。さらに大正に入ってヨーロッパを主戦場とする第1次世界大戦(1914〜18年)の勝者、連合国側に立つことによって、さらに国力を増し、自ら「一等国」と自負するようになった。
 サッカーは「ダグラス少佐」から間もなく、1878年に体操伝搬所――のちに高等師範学校(現・筑波大)に吸収される官立(国立)の教育機関で指導にあたった坪井玄道(1852-1922年)が学生たちにフートボール(フットボール)を教えたことが、体育指導者へのサッカーの浸透の第一歩となった。
 坪井先生は高等師範学校(略称・高師)に移り、欧州視察でサッカーへの造詣を深めて、嘉納治五郎校長の下でスポーツを重視した高師の中でフットボール部が誕生し、やがて東京や横浜の外国人チームと試合をするようになり、また師範学校や旧制中学校などへの指導にも出向くようになって、日本の初期のフットボール発展の軸となった。
 この東京高師を中心に各地の師範学校(小学校の教員養成)へと広がってゆく動きとは別に、日本各地の中学校の外国人英語教師やキリスト教宣教師による導入もあり、また明治21年(1888年)に始まったYC&AC(横浜)とKR&AC(神戸)の2つの外国人スポーツクラブのインターポートマッチには、双方の市民にとっても隔年の行事となった。広島県の似島収容所にいた第一次大戦のドイツ軍捕虜との交流による広島のサッカーレベル向上といった例もあって、各地各様に、徐々にではあるがサッカーが各地の学校へ浸透していった。
 1912年に第5回オリンピック大会がスウェーデンのストックホルムで開催され、日本から陸上競技の短距離・三島弥彦とマラソンの金栗四三の両選手が初めて参加したことで、国内のスポーツ熱は一気に高まった。

 次の年、フィリピンのYMCA関係者の提唱で、フィリピン、中華民国、日本の3ヶ国による東洋オリンピック(のちに極東競技大会と改称)がマニラで開かれた。2年おきのこの総合競技大会のサッカーの部に日本が初めて参加したのは、当時のリーダー格、東京高師チームで、フィリピン(2−15)、中華民国(0−5)にそれぞれ大差で敗れた。あまりの力の違いに驚きはしたが、初の国際試合は、各地の関心を高め、次の年、1918年(大正7年)には、関東、中京、関西で、「フットボール大会」が開かれて、いよいよサッカー人の熱中期に入る。
 このうち関西では毎日新聞社が主催して、名を日本フートボール大会とし、ア式(アソシエーション式)とラ式(ラグビー式)の2競技を行なった。この日本フートボール大会が、いまの全国高校選手権へとつながるのだが、関東での大会が、英国大使館を刺激して、ここからJFA設立にかかわる動きが生まれることになる。
 そのいきさつは次号に――。


(サッカーマガジン 2010年9月7日号)

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