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vs八重樫茂生 優秀な選手はボールを持ったら安心するものだ 〜すべての環境が整っているのになぜ日本は強くならないのか〜 <new!>


『名人と語ろう』
第1回ゲスト 八重樫茂生(富士通総監督)
聞き手 賀川浩

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 イレブン創刊号(昭和46年5月1日発行)以来続いてきた川本泰三氏の放談は、今号から形を変え、ゲストを招くことにした。まず第1回は八重樫茂生氏。日本サッカーがどん底だったメルボルン五輪の頃から、一つの頂点へのぼったメキシコ五輪までの苦難と栄光を経験し、優れたリンクマンとして活躍したあと、現在富士通の総監督で若い人の指導に当たっている。
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仙台の天皇杯で胸を躍らせて川本さんを見た

――川本さんは40歳まで、八重樫君は35歳まで、時代は違っても、それぞれ長い間トッププレーヤーとして活躍されました。川本さんの正式インターナショナルマッチは1954年(昭和29年)マニラでの第2回アジア大会が最高でしたね。

川本:戦後シベリアから帰ったあとのボクのサッカーはいささか蛇足みたいなものだった。メロメロでね。しかし、いい若い仲間がいたから楽しくやったヨ。

八重樫:昭和26年仙台での天皇杯に大阪クラブで出場された川本さんのプレーを見せてもらいました。高校生(盛岡一高)のわたしは、その前から工藤孝一さん(早大OB)のうちへ出入りし、ベルリン・オリンピックのことや、昔の早稲田の名選手の話をよく聞かせてもらっていた。だから仙台の天皇杯は、胸をわくわくさせて見にいったものです。あのとき胸に赤線の入った大阪クラブのユニフォームがずいぶんカッコよかったのが印象に残っています。

川本:あのとき大阪クラブは11人、いや12人だけで仙台へ行った。ユニフォームも適当なのがなくて、丸首のメリヤスシャツを買って、それに赤いキレを引っかけただけだった。もっとも、それが、本邦での最初の丸首ユニフォームだった。

――即製の丸首シャツに憧れた高校生が、やがて日本代表の軸になる。オリンピックだけでもメルボルン(1956年)東京(1964年)メキシコ(1968年)と3度も本大会に出場したのは日本サッカーではただ一人。12年にわたるオリンピックサッカーとなると国際的にも数人しかいない記録なんです。最初の檜舞台のメルボルンは川本さんが監督でしたネ。

川本:マニラの第2回アジア大会のあとで日本代表チームの大幅な若返りを図ってレギュラーでは鴇田(ときた・田辺製薬)と平木(現・協会常務理事)だけが残った。その翌年にメルボルンの予選があって、八重樫、小林、岩淵、大村、内野、佐藤、福原、三村などが出てきた。このときの選手は技術はまあ心細いものだったが、それだけにボクには印象に残っている。韓国には、ともかく1勝1敗、得失点2−2で、抽選で本大会へ出たんだが……

――1回戦でオーストリアに0−2で敗退した(当時は本大会でグループリーグはなくノックアウト・システム)。

川本:うん、あの試合は八重樫をCFにした。パーチョンはその頃まだCFのポジションプレーもできなかったし……。

八重樫:分からなかったんですヨ。

川本:攻められているときは味方の方を向いて頑張っている。横へ動いたり、斜めの身体つきなんてできない。とにかく頑張るだけだ。そこを向こうのCHが後ろから蹴った蹴った。それでこれがダメになった。

八重樫:いなすなんていうことができなかった。

川本:相手を背に足元へもらって頑張るだけで、そこを蹴られるんだ。見ている方がツライほどだった。それで八重樫がまいってしまう。内野もやられるで、点を取るどころじゃなかった。

――東京での予選、日韓戦はよかったのに……八重樫君は大きな動きをしたし、岩淵たちもよかったでしょう。

八重樫:メルボルンへ行って、ユーゴと練習試合をしたり、ソ連の試合を見たりして、かえってサッカーが分からなくなっていましたね。

川本:あのとき八重樫はインナーをやればよかった。センターフォワードは知らなかったが、インナーなら前後、左右の大きな動きができたからな。

――メルボルンのときが昭和31年だから23歳、4年後のローマのときは27歳でいわば体力的にも自信があり、まわりが見えるようになった頃だが……。

八重樫:ところが、そのローマの予選(昭和34年12月)はわたしは出ていないのです。その年の8月のムルデカでの韓国戦で、やはり後ろから足を蹴られて、クルブシのところを痛めてしまった。おかげで、日刊の五輪予選は病院でラジオを聞いていたんです。35年5月の天皇杯(大阪・うつぼ)で古河電工が優勝したときに、やっと試合に出たくらいです。

川本:まあ、パーチョンはケガの多いタチではあった。

――ボクも1966年(昭和41年)の第5回アジア大会(バンコク)をカバーしたとき、イランの選手に後ろからバーンとやられるのを見た。

川本:八重樫は中盤で一人二人抜いてゆくことができる。その頃のそんな選手は彼しかいない。となると相手から狙われるんだよ。まあ、それでケガをしながら、長くやったもんだヨ。


自分で局面が見えてからサッカーが楽しくなった

――無我夢中で動いたメルボルンの予選から第一線を退くまでの長い間、それぞれの時期に楽しみがあったでしょう。

八重樫:そうですねえ、自分で局面が見えるようになった頃が一番楽しかった。瞬発力もまだあり、点も取れたし、スタミナもあった、そして戦況が見えたというのは28、9歳だったかな。古河電工が国内のタイトルを全部取って、東南アジアへ遠征し、だいぶ点も取りました。

――東京オリンピックが31歳。

八重樫:31ぐらいになって、見える局面がだんだん広くなった。が時すでに遅しという……動きの方も落ち始めて……。

川本:そういうもんだよ。

八重樫:量は落ちたが、質的には多少良くなったと思います。同時に、サッカーのシステムも変わって中盤をやっていて負荷も大きくなったが、効率を考えられるようになった。サッカーは色んな選手で構成される。釜本や杉山などという突破できる点の取れる選手も入ってきた。そういう構成メンバーをいかに生かすかを覚えざるを得ないこともあった。そのためにはゲームの流れとか、タメとかが、だんだん分かってきた。

――日本代表チームに、あんたの使いがいのあるメンバーも入ってきた、ということやね。当時はみな東京オリンピックへ向かって一種の気概があった。

八重樫:大会の前はサッカーなんて、問題にされていなかった。しかし、やる本人にすれば、日本でのサッカーがこれまで通りマイナーのままでゆくのも、盛んにするのも自分たちの努力次第だと肝に銘じていました。

――準々決勝のチェコ戦のあとでクラマーに会ったら、彼は「今日の八重樫を見てくれたか、チェコのリンクマン、欧州のスタープレーヤー、ゲレタと互角のプレーをやったろう」ととても喜んでいた。

八重樫:ボクには大会前の4ヶ月の合宿がよかった。もう技術的には伸びないにしてもなんとかついてゆける体力に自信を持ってましたから。1960年からソ連やヨーロッパへ代表チームは出かけたが、1964年の東京五輪の夏の遠征ぐらいから、チームが安定してきた。それまでは、セミプロの強いのといい試合をしても弱いアマチュアに負けたりする。それが64年の夏には強いチームともよい試合をし、弱いのには勝てるというふうになった。

――弱い相手とするときは、強いのとやるときよりマイボールになる時間が増える。増えるのに、それを有効に生かせなかった。それがチーム全体の向上、特にリンクマンの八重樫君の能力アップで、弱いところには勝つ、つまり点が取れるようになってきたんだと思う。

川本:昔の軍隊は、はたち(20歳)で徴兵検査を受ける。合格すると兵隊になる、つまり現役だネ。それから2年経つと除隊する。そこで予備になる。これが2〜3年だ。そうすると後備(こうび)になる。これがまあ27、8歳だ。今度の大東亜戦争で予備〜後備も招集された。それが、例えば戦闘するだろう、行軍するだろう。そのときどこが一番強いかというと、後備が強い。30までの。

――軍隊でいわばオッサンですわネ。

川本:うん、1日に20里も30里も歩いて、それも戦闘しながら次の村へ行くと現役兵はぐたっとしている。そのときには後備のオッサンはもう村で徴発に行っている。

八重樫:兵長とか、下士官とかいう人たちですか。

――いや階級は関係ない。一度現役を経験し、後備にまわって招集できた兵隊で、年齢が高いだけだ。

川本:本当なら年齢が高いのだから、早くへばらないかんのが、現役より元気なのだ。

――ふーむ。まあ、27、8から30歳は耐久力のある年でもありますが……。

川本:もちろん、それもある。だがただ単なる体力、耐久力の問題ではないんだ。それをボクは選手にいいたいんだ。例えば1試合90分間、走り回るスタミナをつけろといわれているが、そんなことできるのか。
 いかにうまくスカすか、敵も味方も分からないところで、後備兵はうまくスカしているんだ。
 これをいうと、また誤解する向きもあって問題を生じるかもしれんのであまりいわないが、事実は90分走り回っても、なおかつスタミナが続くなんてことありえないだろう。

――スカす話は、なかなか高度でネ。選手としての経験、人生の経験もかなり大きなポイントになります。ところで現在、若い選手を指導して、どうだろう。

八重樫:上手になるために人より余分に練習をしようという人が少ないですネ。やる人もいるにはいるが……まあ、ボクたちがやっていた頃も川本さんから見ればナマッチョロイことをやっていると思われたかも分かりません。そういうものの繰り返しかもしれませんが……。


選手を成長させるハングリー追及の精神

川本:いや、ボクは決して八重樫たちがやったことをナマッチョロイとは思わんよ。ボクならボクがやってきたサッカーを基準にして、今の選手や他人にそれを、こうだからこうだと強制はしない。それぞれの生き方があるんだから。
 ただ一ついいたいのは、ハングリースポーツという言葉だ。例えば文字通りのハングリーもある。貧乏でメシが食えない。だからこの試合に勝って稼がなければならん。そんなハングリーもある。だが、例えば、ゴルフにジャック・ニクラウスというプロがいる。あれは決して貧乏人の子ではない。にもかかわらず大成している。ボクの場合も、貧乏ではなかった。もっともアマチュアだからプレーで金を稼ぐことはない。しかし、ハングリーはあった。それは何かというと足が遅いこと、体の弱いこと、見かけの弱々しいこと、そういうハングリーをカバーするために何かをやった。

――何か、ハングリーを持たないかんわけですネ。

川本:いまは確かにいろんな条件では恵まれている。しかし今の選手にハングリーになる条件がないとはいえない。例えば碓井という選手がいるだろう。あれはハングリーだよ。ボクにいわせれば……。あの球の持ち方はどうだ。上半身で泳いでいるみたいだ。あんな格好のサッカーは世界で通用するのか。あんな大きなハングリーを持っているんだ。彼の学生時代、早慶戦のときに本人を呼んでいってやったんだ「キミは水泳をしているのか」とね。ピンとこない。自分がハングリー、つまり弱点を持っていることに気がつかないんだ。自分のなかに自分のハングリーを求める能力がなければいい選手になれないヨ。
 パーチョンだって足は遅いし、体はこわい(固い)。そういうところに、キミは知らず知らずにハングリーを求めたんだと思う。
 だからあんなゴワゴワしながら、2人も3人も抜ける技術を覚えたんだと思う。

八重樫:まず、もう他の人間に負けたくないという気でやりました。ボクは臆病ですからやたらに手を出さない。やる以上は人より以上になりたかったから……。

――ところで、いまの日本サッカーをどうしたらいいか、まあ環境もよくなった。試合数も増えてる。国際交流も多い。それでも……。

八重樫:うち(富士通)などの例から見ても戦況が見えていない選手が多い。だからこのボールがどっちへ展開されて、局面を見たとき形がこうなっているからこういうふうにするという意図……そういう面の非常に低い選手が多い。それともう一つはボールが持てない。だからうちのいまの練習はドリブルが多いんです。

――ボールに自信を持っていないからゲームも読めないんじゃない。

川本:上手な人と下手な人との差は、自分がボールを持ったときに、上手い選手は安心する、下手な選手は不安になる。
 この間、日本と韓国の定期戦をテレビで見たが、ボールを持ったときの態度は韓国の選手は大きい。日本は怖々。2−1はその差だ。連中がもっとシュートが上手かったら、まだまだ点を取られている。

八重樫:きたら抜くぞ、という格好でボールを持たれたら、飛び込めないですよ。例えば、ボクが川本さんの後ろからマークする。ボールが川本さんのところへ来る。そのときに、来る前にパッとボクの顔を見たら、ちょっと飛び込めないですよ。人間は、身体の中から何か発散するものがあるんです。

川本:そうなんだ。1対1というのは、ボールの持ち方と、その前に人対人の当たり合いということなんだ。日本のサッカーを強くするために選手一人ひとりの技術開発の問題点を持たないかんのだが、それに関連して、例えば釜本だ。あれだけの技術と体格とスタイルを持っていて、いま釜本がボールを持っても敵は怖がらんだろう。そんなバカなことはない。もっと敵はウジウジ、おどおどするのが本当なんだ。彼がボールを持ったときに相手が平気で取りに来る。それではダメだ。もっと威厳がなければいかんよ。釜本ほどの選手がボールを持ったら、相手は何もできないのが当たり前だ。

八重樫:そう、あれくらいのものを持っている選手は稀有ですね。

川本:にもかかわらず相手が怖がらないのは問題がある。というのは威圧感がないからだ。結局、1対1というのは八重樫がいったように、技術を云々する前に、人間同士の目に見えない葛藤から始まるんだ。


1対1は技術でなしにまず人間同士の対決だ

――ワールドカップなどでも、向こうのトップ同士が、お互いに心理的な優位に立とうとするのが、見ていても面白いですネ。結局1対1ということがいわれて久しいが、まず技術でなしに、人間同士の圧力のかけ方の争いだからな。この前の日韓戦を見たところでは、1対1というものをつかんでいないのではないかな。

――もちろん、それには技術がないといけないわけで……。

川本:そら当然だ。技術の裏付けなしにただ威張っていても仕方がない。
 この間の日韓戦に戻るが、昔から変わらないなと思ったのは韓国の選手は日本選手にイヤーな感じを抱かせるプレーをする。日本の方はそうでない。あのイヤらしさに勝つためにはよほど技術に差がないとあかんよ。
 うーん、それの端的な例が、いつだったかのユースのペナルティ合戦。

――ああ、ボールのそばまで行って、キックするふりをしてキックしなかったのがあった。

川本:そう、あれで、あのときのユースの瀬田だったかGKが完全に乱されたね。あのイヤらしさに勝つためには、だいぶ上にならんといかん。

八重樫:まあ韓国も、そう上手になっているとは思いませんがね。

川本:韓国は本質的にブレーキの利いたプレーだったのが、ヨーロッパ式の“さっさっ”というスマートなサッカーに切り替えようとしているようだが、そのスマートなのと、ブレーキの利いたのとは、相容れないものがある。

八重樫:そのために中途半端な感じにはなっていますね。

川本:ボクは韓国は本質的なもので通すべきだと思うが、それはまあ、韓国が決めることだ。問題は、我々日本はどんなサッカーに持ってゆくかだよ。

八重樫:近頃は底辺が広まってきたことは確かだ。しかし、ブロック塀のブロックのような画一的なプレーヤーが多いことも事実なんです。やはり指導の問題でしょう。

川本:協会のコーチングスクールを出た指導者たちが、じゅうぶん本質的なものをわきまえていてくれないと困る。コーチングスクールで習うのは、あくまでも基本だからね。コーチングスクールの本家ドイツではミュラーやベッケンバウアーのような“好き勝手な”(個性的な)連中が出ているじゃないか。
 まあ、ボクは生涯に一度だけアドバイスを受けたことがあった。早稲田へ入って2年目か3年目かだった。

――どんな……。

川本:「キミのプレーに幅ある」といわれた。そのときはピンとこなかったが、だんだんやっているうちに、ああ、ボクは懐の深い球の持ち方が特徴だなと思い当たるようになった。アドバイスをしてくれたのは手島志郎さん(東大OB)。もっとも手島さんがボクにしてくれたような、いいアドバイスをボクが人にした覚えもない。コーチというのは、難しいもんだ。
 まあ、指導者の一人であるキミなどが、日本のサッカーをどうするかをやってくれなければいけないんだから、しっかりやってもらわないかんわけだ。

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八重樫 茂生
昭和8年3月24日生、43歳、盛岡一高、早大、古河電工、昭和31年メルボルン五輪代表、以後昭和39年東京五輪、昭和43年メキシコ五輪代表、現在は富士通の総監督
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(イレブン 1977年3月号『名人と語ろう』)

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