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1979年ワールドユース「若きロメロと仲間たち」

 1979年8〜9月に日本で開催された第2回ワールドユース大会で、パラグアイは準決勝で敗れはしたが、チーム主将のフリオ・セサール・ロメロは、あのディエゴ・マラドーナに次いでベストプレーヤーの投票で2位になり、シルバーボールを受賞した。ロメロとともに活躍したカバニャスやデルガドは、後に代表チームの主力となるのだが、こうした若い力の台頭は、パラグアイ・サッカーの大きな活力となった。

 実際、南米選手権の最大のヤマ場となった準決勝の対ブラジル戦で、ホームでの1勝の後、アウェーのマラカナン競技場を埋めた16万人のブラジル・サポーターを失望させたのは、ロメロの同点ゴール(2−2)だった。

 ロメロについては、彼らのワールドユース1次リーグC組の会場が神戸であったため、私は実際に彼のプレーを見て、好印象を受けたのを今でも覚えている。マラドーナほど速くはないが、中距離パスが正確で、FKのときのカーブのコントロールが見事だった。

 当時、19歳の彼は大学生で、サッカーはスポルティボ・ルケーニョに所属していた。パラグアイの1部リーグ10チームのうち、9クラブまでがアスンシオンにあって、このルケーニョだけが15キロほど離れた町のクラブだったが、クラブでの彼の収入は月に100ドル。そのロメロに、ワールドユースの活躍が認められてニューヨーク・コスモスから誘いが来た。100ドルが一挙に9千ドルになる条件に心動かぬものはあるまい。

 なにしろ、この当時パラグアイのサッカー界で最も高い報酬を受けているオリンピアとセロ・ポルテーニョの選手で月に350ドル。勝ち試合のボーナスを含めても500ドルになるかというところだった。したがって、チームが国際舞台で活躍し、選手の力量が外国で評価されると、選手たちの流出が始まる。
(サッカーダイジェスト1991年2月号より)

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