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英国大使館の助力で関東大会開催。FAからの銀盃寄贈がJFA創設を促進


 大正6年(1917年)5月、東京・芝浦での第3回極東大会は、フィリピン、中華民国と日本の3ヶ国による、国際スポーツの総合大会で、我が国のスポーツ界では初めてのビッグイベントだった。
 陸上、水泳、テニス、野球、自転車、サッカー、バレーボール、バスケットボールの8競技のうち、日本は水泳とテニス、野球で優勝し、陸上競技も健闘して、この大会の総合優勝ということになった。バレー、バスケット、サッカーの球技は2国との実力に開きがあって、ともに3位(最下位)だった。日本サッカーを代表して出場した東京高等師範(略称・高師)のメンバーや関係者にとって大きなショックではあったが、この差を埋めようとする気持ちを強くしたことと、大会によって蹴球(サッカー)への関心が全国的に高まったことが、進化への糧となった。

 対中華民国0−5、対フィリピン2−15という敗戦を受けて、実力差を縮めるのには、もっと練習すること、学生時代に選手だった者が、卒業後もプレーを続けることがレベルアップにつながると考えたのが内野台嶺さん(1884−1953年)――。
 明治38年(1905年)に高師に入学し、予科、本科の4年間、蹴球に打ち込み、卒業後は豊島師範学校の教諭となって同校のサッカー部をつくり、先行の青山師範学校に追いつく基礎を築いた実績があった。高師の漢文の先生であった内野さんは、大会のあと、高師と青山師範、豊島師範に呼びかけ、卒業生のチームをつくる提案に賛同を得て「東京蹴球団」を9月29日にスタートさせた。
 内野教授の次の狙いは、極東大会の刺激で増え始めたチームのために試合の場――定期的な大会を開催することだった。

 翌1918年(大正7年)2月に第1回関東大会が開催された。9日(土)、10日(日)、11日(紀元節、今の建国記念日)の3日間、東京高師のグラウンドで行なわれたこの大会は、東京蹴球団主催で、高師の全面的な協力と東京・朝日新聞の強力な後援がなければ実現しなかっただろう。
 中学校(旧制)チームによる優勝争いと、模範試合の2部に分け、中学の部には豊島師範A、B、青山師範A、B、埼玉師範、明治学院、佐倉中学(千葉)、横浜二中の合計6校8チームが参加して豊島師範Aが優勝した。
 模範試合には英国大使館を主体とした東京クラブ、中華留学生、朝鮮青年団、東京帝大(東大)クラブ、東京高師A、Bと東京蹴球団の7チームが4試合をした。
 前年の極東大会で、サッカーへの世間の興味が高まり、大会直後から、中学校や小学校の校庭でボールを蹴る者が増えたと言われるだけあって「大会には見物人も多かった」とある。「決勝の日は久邇宮様、山階宮様、武田宮様、ご兄弟合わせて六宮様方がご臨場になり、御下賜金までいただいた」と内野さんは記している。

 大会を開催するのに、英国大使館のウイリアム・ヘーグさん(1891−1923年)の助力が大きかった。この人の上司にあたるグリーン英国大使も来場して観戦した。
 最初の国際試合での実力差にショックを受け、東アジアの仲間のレベルに追いつくために、東京蹴球団の結成、関東大会の開催といった第一歩を踏み出した内野教授たちのグループに、次の年、驚くべきニュースが飛び込んできた。
 内野教授の記述によると――

「大正8年3月12日の東京・朝日新聞紙上に突如として英国蹴球協会から我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈した記事が出た。
 自分たちはびっくりしていた。
 3月20日、東京高師校長・嘉納治五郎先生から早速出頭せよとの書面に接した書面に接した。
 これにもまたびっくりした」
「嘉納先生から申し渡された事柄はこうだ。
『このたび英国大使を通して英国の蹴球協会から、我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈してきたが、日本にまだそのような協会がないから是非この際それを設立せよ』」

 内野教授の知らないところで、FA(フットボールアソシエーション)と在日英国大使との間で日本へカップを寄贈する話が進められていたらしい。
 私たちの手元にある資料を見ると、「THE HISTORY OF THE FOOTBALL ASSOCIATION」の1919年の項に「外務省からの要請を検討し、日本でのチャレンジカップのためにシルバーカップを購入し、在日英国大使館を通して寄贈することを認めた」との記述がもある。
 英国の高級紙であるタイムズ紙の1919年1月3日付の紙面にも「FAは日本へ立派なシルバーカップを贈る」という記事が掲載されている。


(サッカーマガジン 2010年9月14日号)

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