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JFA初代会長、今村次吉は不忍池周回競争の裸足のランナー


 1919年(大正8年)3月20日、東京高等師範の内野台嶺教授(1864−1953年)は、同校の校長であり、大日本体育協会会長でもあった嘉納治五郎さん(1860−1938年)から日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の設立を指示された。
 嘉納さんは柔道の講道館創設者でもあり、日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員でもあった。この7年前の1912年、ストックホルム・オリンピック大会に日本代表が初参加したときに団長も務め、日本のスポーツ界のリーダーとなった。
 ついでながら、嘉納という姓から推察されるとおり、兵庫県の酒造家の生まれで、いま進学校として名高い灘高校の初代校長でもある。嘉納校長の影響で、灘高校も前身の旧制灘中学校のときからサッカーは熱心だった。

「協会創設に関しては、英国大使館のウィリアム・ヘーグ氏は、英国の協会の事情やらシルバーカップ(FAカップ)の規約やら書いて送って下された。英国の大使と我が貴族院議長、徳川家達公とを名誉会長に仰いで隔年にこのカップを授与することの御承諾をも得て下さった。
 ところが、会長を得る段になると非常な困難に出会ってしまった。蜂須賀侯爵、鍋島侯爵、後藤男爵、大谷光明氏、嘉納治五郎先生、岸清一博士といった具合に、ずいぶん処々方々にお願いに上がったが、いずれもやむを得ぬ御事情で承諾願えなかった。
 とうとう体育協会の援助を仰ぎ、今の会長の御就任を得て、ここ大正10年(1921年)9月10日、めでたく成立を見るにいたったのである」(大正10年度、大日本蹴球協会会報第1号、協会成立の顛末 内野台嶺記)より

 駐日英国大使館が「日本のスポーツが盛んになるように、また日英両国の関係がより親密になるように」と希望し、同国外務省を通じて、ロンドンのFAに働きかけたことで生まれた「シルバーカップ」の寄贈は、大日本蹴球協会の設立と、全国大会(いまの天皇杯)の開催という、この国のサッカー発展の第1歩を促し、踏み出させることになった。  内野さんは、前述の会報第一号とは別に、昭和3年度の会報『ア式蹴球の発達及び変遷』にも協会成立期と、その後の歩みを記しているが、その中で、初代会長がなかなか決まらなかったために、協会設立に時間がかかったと言っている。
「おいおい盛んになってきたとはいえ、まだ世間からあまり認められていないア式蹴球のことであるから、誰も進んで会長になり手がない」(昭和3年の会報から)とのことだが、なにしろ、単一の競技団体として初めてのことでもあり、未知の部分も多かったこともあっただろう。

 今村次吉会長は1881年(明治14年)生まれで、就任当時は40歳。明治、大正期にフランス語学者として知られた今村有隣(ゆうりん、1841−1924年)の二男、兄・新吉さん(1874−1946年)は精神病理学の先駆者(京大教授)という、いわば学者の家柄だが、自身は東大法科を卒業(1904年)後、大蔵省事務管となり、ロシア駐在財務官を経て亜細亜林業社長、日露実業常務などを歴任した。サッカーは高師附属小学校のときに、坪井玄道先生(1852−1922年)から手ほどきを受けたという話も残っているが、一高や東大では、その頃急速に人気の出た運動会(陸上競技大会)での活躍ぶりが有名で、明治33年(1900年)11月の東大の運動会で、200、400、1000メートルの3種目で優勝した記録も残っている。
 ストックホルムのオリンピックの日本代表を決める国内予選(体協主体)でも競技委員を務め、陸上主体のルールブックの翻訳や編集にもかかわっていた。

 そうした実績の中で、もっとも興味をひくのは、一高時代に上野の不忍池13周競争で今村さんが、常勝と言われた木下東作を破ったエピソードだろう。
 1周1マイル弱の13周、1時間35分49秒という記録が、今と比べてどれほどのものかはともかく、オリンピック史家で、スポーツの大権威・鈴木良徳さん(1902−1991年)の著『オリンピック外史』によると、今村さんは「朴歯(ほうば)の下駄でスタートし、途中で裸足になったという話を紹介し、弊衣破帽(へいいはぼう)の一高スタイルの見本みたいな性格」と伝えている。

 大蔵省を振り出しにビジネスマンとなり日露戦争直後のロシアとの難しい問題の処理にもあたった今村さんは、体協の筆頭理事として、オリンピック大会参加などの資金集めにも力があった。その実力者を会長に、実務は内野教授をはじめ高師出身の熱心な理事たちがあたることになり、JFAの体制は固まった。体協から大枚、千円の補助金が出た。
 初代会長が優れたランナーの今村さんであったこと、そして、その後の代表チームのカラーとなる「走るサッカー」の不思議な縁に歴史の面白さを思う。


(サッカーマガジン 2010年9月21日号)

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