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2競技開催の日本フートボール大会。常勝・御影師範


 1921年(大正10年)9月10日、いまから89年前に大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)が誕生。この11月に第1回全国優勝大会(現・天皇杯)が開催され、優勝した東京蹴球団が、ロンドンのFA(フットボール・アソシエーション)寄贈のシルバーカップを受けた。
 優勝チームは、東京師範学校(略称・高師)や青山師範、豊島師範などの卒業生で構成されたクラブ、決勝の相手は、近畿代表の御影師範学校だった。師範学校は小学校の教員、高等師範は旧制中学校の教員を養成する教育機関。東京高師はいま筑波大学となり、御影師範は後に神戸大学教育学部から発達科学部と名を変え教育者育成にあたっている。

 1863年にイングランドでFAが設立され、「手を使わない」フットボールのルールが統一され、アソシエーション(協会)のフットボールとして世界に広まっていった。「手を使わない」と言うことで、FAと分かれてラグビーユニオンが誕生(1871年)したことは皆さんのご存じのとおりだが、日本では、この手を使うラグビー・フットボールが明治期に慶應義塾に伝わり、アソシエーション・フットボール(サッカー)が高師に根をおろしたのだった。
 89年前のJFA主催の全国優勝大会の決勝が東京蹴球団と御影師範の間で争われたことも、当時のサッカー界での教育系の学校チームの勢力を示すものと言えた。

 ここで、目を関東、東京から西に移して見ると――
 御影師範が近畿代表として大会に出場したのは、御影が大正7年(1918年)に始まった日本フートボール大会で4連覇しているところから、大阪毎日新聞社(日本フートボール大会共催者)が推薦したものだった。
 準決勝で中部代表の名古屋蹴球団を退け、決勝で当時の日本代表のメンバーを揃えた東京蹴球団を相手に師範学校の生徒だけのチームで大接戦を演じたことで、その力を示したことになるだろう。

 日本フートボール大会は、いまの全国高校選手権大会の前身ですでに92年の歴史を重ねている。
 1977年の第55回大会から首都圏に会場を移しているが、私たち関西人にとっては、豊中に始まり、甲子園時代、西宮時代、大阪・長居時代と、戦前、戦中、戦後の54回の大会は身近なものだったし、関西での最終戦となった第54回大会での浦和南高校の田嶋幸三(現・JFA副会長)の決勝ゴール、メインスタンドから見て左手側での反転シュートは、いまも目に焼きついたままだ。

 第1回大会から日本フートボール大会と名乗ったのは、もともと、この大会企画は慶應ラグビー部のOBの杉本貞一さん(故人)が大阪毎日新聞に持ち込んだもので、日本ラグビーの始祖ともいう慶應を関西に招いて、関西のチームと試合をさせ、ラグビーの浸透を図ろうという考えだった。
 新聞社側も賛同したが、さて、となると関西ではラグビーをしている学校は少ない。催しとしては淋しいので、チーム数の多いアソシエーション派(サッカー)を加えて、フートボール(フットボール)大会ということで2競技を行なうことにし、アソシエーションを「ア式蹴球」、ラグビーを「ラ式蹴球」と呼び、新聞にもこの表記を使った。
 1月12日、13日に阪急電鉄沿線の豊中駅近くの野球場で、ア式は明星商業、関学高等部、奈良師範、姫路師範、京都師範、堺中学、神戸一中、御影師範の8チームが参加して、ノックアウト方式で争い、決勝で御影師範が1−0で明星商を破って初優勝した。

 ラ式では同志社、第三高等学校(略称・三高、後に京大に吸収)と京都一商が参加。同志社が三高を破り(19−0)、決勝で京都一商に勝った(31−0)。慶應は西下したが、大会を棄権し、神戸外人クラブと試合をしたと伝えられている。慶應の棄権の理由は明らかではないが、第2回大会にも西下して同志社を破ったが(6−0)、次の試合を棄権している。中学生を相手に慶應の大学生が試合するわけにはゆかぬというところだったろう。

 日本フートボール大会と「日本」の名を冠したのは、主催新聞社が朝日の全国高校野球に対抗するものにしたいという願いと、慶應ラグビー部が参加するという2点が重なったものだろう。
 いささかラグビーの話が長くなったが、この日本フートボール大会の初期のエピソードは、すでに野球が一足早く社会へ浸透し始めていたときに、ラグビーやサッカーといったフットボール系競技の関係者が、その普及とレベルアップに心を砕く一つだと私は理解している。
 新聞で大きく報道されることで参加チームの意欲は高まる。御影師範の大会での優勝はしばらく続いたが、やがて神戸一中が台頭することになる。


(サッカーマガジン 2010年10月12日号)

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