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全国優勝大会の大正末期の技術進歩。ドイツ捕虜との交流で進化した広島


 1921年(大正10年)の第1回全国優勝競技大会(11月26、27日、東京・日比谷)に近畿地区(近畿及び四国地方)代表の御影師範が、東京蹴球団と好ゲームを演じて0−1で敗れたことから、当時の御影師範と日本フートボール大会(現・全国高校選手権大会)について前号で紹介した。
 極東大会参加によって大きな刺激を受けて、関東、中部、近畿でそれぞれ地域大会が始まり、それに触発された駐日英国大使館(同国外務省)を通じての要請に応じたロンドンのFA(フットボール・アソシエーション)から日本へシルバーカップが届いたのが大正8年(1919年)。このカップ到来を機にJFAが創立され、全国大会の開催(勝者にFAのシルバーカップを贈る)というのが、いまから89年前のJFA誕生と全国優勝大会(天皇杯)開催のいきさつ。文字にすれば250字程度だが、当時の関係者にとってはまことに目まぐるしい日々であり、その仕事をこなしていった力には感嘆の他はない。
 この大会によってサッカー(蹴球と呼んでいた)の普及とレベルアップの速度を増すことになる。
 そのレベルアップにはビルマ(現・ミャンマー)人の留学生チョウ・ディンさん(第4回日本サッカー殿堂入り)が大きかった。

 明治初期の体育伝習所から東京高等師範という教育系の学校の中で明治中期に学内に浸透し、関東在住の外国人チームとの試合によって技術を伸ばし、自らテキストをつくることにより、知識を増し、師範学校などへ指導に出向くことで、この競技は各地の中学校へ浸透していった。
 大阪・豊中での第1回フートボール大会の開催にあたって、ラグビー関係者から持ち込まれたラグビー・フットボール大会の企画が、ラグビーだけでは参加チームが少ないからと、アソシエーション式(ア式蹴球=サッカー)を加えての2競技の開催となったのも、この高師−師範学校という教育系の学校を通じての普及がラグビーより進んでいたからだと言える。
 といって、普及が進み、交流試合や大会が行なわれるようになっても、技術の急速なアップには何かが必要だった。チョウ・ディンさんは、そういうときにうってつけの人だった。
 ただし、このビルマからの留学生より少し前に、JFAの区分でいえば西部にあたる本州中国地方の広島で画期的な「国際交流」がレベルアップにつながった。

 広島には東京と同じように高等師範学校があって、日露戦争の次の年、明治39年(1906年)はオックスフォード大学出身のC・M・プリングル教授が着任してサッカーとラグビーを指導したという記録がある。また、東京高師で選手だった松本寛次が広島中(広島一中、現・国泰寺高)に明治44年(1911年)に赴任してサッカー部の基礎をつくっている。広島師範にも東京高師の出射栄によって大正3年(1914年)にチームがつくられるなど、ここも、高師系の指導者によって根を下ろすのだが、大正8年に技術アップのチャンスが生まれる。

 それは第1次世界大戦(1914−18年)で、日本が英国などの連合国側に立って、ドイツと戦い、中国山東手島のドイツ軍港、青島(チンタオ)を攻略したことから始まった。
 ここを占領したことで多くのドイツ人捕虜が日本の収容所で大戦終結まで暮らすことになった。広島県の瀬戸内海の似島収容所のドイツ人たちの体育大会が広島高師のグラウンドで開かれ(1919年1月)4種目のスポーツが2日間にわたって行なわれ、第2日のフットボール(サッカー)での彼らの巧みさは観衆を驚かせたのだった。捕虜たちの間での運動会だけでなく、捕虜チームと対広島高師、広島師範との交歓試合も行なわれ、日本側は大敗した。「ヘディングで競り合っても届かない。体力も技術も問題にならなかった。広島の選手とはボールの蹴り方から違っていた。ドイツ人は自在にボールを操った」という広島高師のキャプテンの話が残っている。

 以来、キャプテン田中敬幸さん(故人)は日曜日ごとに似島に渡ってドイツのサッカーを学んだ。当時の日本の軍部もおおらかだったから陸軍運輸部は収容所通いを許可し、小舟を出してくれたという。
 捕虜のドイツ人たちはチームごと素晴らしい見本だったし、個人技術も教えてくれた。ここで学んだ田中キャプテンはのちに、姫路や御影といった兵庫県の師範学校、あるいは神戸一中へも指導に出かけた。大正9年(1920年)に広島一中の教諭となった田中先生によって、レベルアップした広島一中は、神戸高商主催の中学校大会に初優勝する。
 私の記憶ではこの田中敬幸先生と、第4代JFA会長の野津謙さんは広島一中の同年輩で、田中先生は左のウイング、野津会長はフルバック(DF)だったハズ。

 ドイツ人捕虜に習った広島一中を始め、この地域のレベルは高まり、同じ頃の神戸一中の私の先輩の中には、近畿のチームだけの日本フートボール大会より、神戸高商の大会のほうが広島勢が来るのでレベルが高く、ここで勝つ方が意義がある――という人たちさえいた。広島地区のレベルアップは第4回、第5回の全国優勝大会の鯉城クラブ(広島一中OBクラブ)の連覇にも表れる。


(サッカーマガジン 2010年10月19日号)

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