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大正末期日本サッカーの技術進化に貢献したビルマ人留学生チョー・ディン


 ビルマ(現・ミャンマー)からの留学生チョー・ディン(Kyaw Din)さんが日本サッカーの歴史の上で大きな功績を残したことは早くから知られていて、2008年にはJFA第4回日本サッカー殿堂入りの表彰も受けている。
 にもかかわらず、ご本人のことについて、たとえば生い立ち(1900年4月生まれ)や、ビルマに帰国してからの生活などについて、ほとんど知られていない。
 私自身も、チョー・ディンさんの直弟子ともいうべき竹腰重丸(第1回殿堂入り)、玉井操(第1回殿堂入り)さんをはじめとする多くの先輩の口から、この人の指導ぶりや恩恵について聞かされながら、いまだにその大恩人の生涯について知ることの少なさについて忸怩たる思いでいる。
 私どもの不勉強からくる未知の部分については、これからの研究を待つとして、大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)が誕生したばかりの大正10年(1921年)当時のサッカーにとって、20歳そこそこの留学生チョー・ディンさんが、サッカーに造詣が深く、指導に興味を持っていたことは、まさに天の配剤といえた。
 東京・蔵前にあった東京高等工業(現・東京工大)に留学していたチョー・ディンさんが極東大会への参加を控えていた日本代表選手たちの練習を見たのが、指導するきっかけといわれている。

 JFAの50年史によると、「走り高跳びのアスリートでもあったチョー・ディンが早稲田大学を訪れたとき、高等学院(早大の予科)サッカーチームの練習を見たのがきっかけ」となっている。日本代表うんぬんは東京高等師範附属中学校(略称・高師付中)の「蹴球部60年史、付属中サッカーのあゆみ」にある同校35回卒業の竹内至の記述。
 1974年出版のJFA50年史よりも10年後の1984年出版の高師付中の60年史を取りあげたのは、サッカー史の研究が徐々に進むようになった時代のことを考えてのこと。高師付中は、日本サッカーの始祖ともいうべき東京高等師範学校の付属中学校でもあり、校舎も隣接していた時期もあった。
 第6回卒業生に初代JFA会長今村次吉さん(第1回JFA殿堂入り)、24回卒業生に新田純興さん(第2回殿堂入り)=いずれも故人、といった大先輩を始め、多くの名選手、サッカー界の先達を送り出した超名門の旧制中学校でもある。
 現在、サロン2002というサッカー人の集まりを組織し幹事長を務めている筑波大学OBの中塚義実さんが筑波大学付属高校、つまり昔の高師付中の先生であり、高等学校体育連盟のサッカー部会のメンバーとして高校サッカー史についての研究を深めておられるから、こうした草創期についてもまた多くの史実が表れてくるかもしれない。

 ちょっと横道に入ったが、チョー・ディンさんに話を戻す――。前述の1921年の日本代表(東京高師とOBが主力)を指導し、進歩もあったが、極東大会で、フィリピンや中華民国に勝つまでには到らなかった。彼の指導が基も効果を表したのは、早稲田大学の高等学院の第1回インターハイでの優勝ということになるだろう。
 インターハイというのは、現在の全国高校総体ではなく、旧制高等学校の全国大会のこと。
 旧制高等学校というのは明治19年(1886年)に日本の新しい教育制度が決まった時に、帝国大学(いまの東大や京大など)、中学校、師範学校、小学校などについての法令が公布され、大戦前の教育の組織をつくるのだが、この中で中学校を尋常中学校(3年)と高等中学校(2年)に分け、その高等学校の中で、帝国大学の予科的な性格を持つものと、高等専門学校的なものとに分かれ、前者がいわゆる(旧制)高等学校となっていった。

 この帝国大学への進学者の集まる高等学校の蹴球(サッカー)全国大会を考えたのが東京帝大(東大)の学士であった野津謙さん(第4代JFA会長)だった。広島一中時代にサッカーを覚え、第一高等学校に入ってからも、この競技への情熱を持ち続けた野津さんは、野球部全盛時代の一高のグラウンドにサッカーのゴールポストを立てて、一高グラウンドにフットボールを持ち込んだ実績を持つ。
 東大のサッカーを強くするために、ここへ学生を送り込んでくる高等学校で盛んにすること、そのために全国大会を開催しようというのは、まさに炯眼といえたが、この大会に参加したいと、その頃生まれて日の浅い早稲田大学高等学院サッカー部のキャプテン、鈴木重義さん(第4回殿堂入り)が申し入れ、参加を認められて、第1回大会に出場すると、見事に優勝してしまった。
 その優勝はチョー・ディンの指導のおかげだった。


(サッカーマガジン 2010年10月26日号)

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