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スコットランド流のパスゲームを強調したチョー・ディンの指導


 10月12日のソウルでの対韓国(0−0)は緊迫したいい試合だった。日本代表の新しい監督アルベルト・ザッケローニが「日本の技術の高さ、韓国のフィジカルの強さが表れていた」と言っていたが、私には2010年のワールドカップを経験した両国代表が、それぞれに進化しながら、伝統的なチームカラーを際立たせているのが面白かった。そして、改めて、その日本サッカーの技術、戦術の伝統の基礎をつくったビルマ人チョー・ディン(Kyaw Din)さんへの思いを強めたのだった。
 南アジアの大国、インドの東隣にあるビルマは、今は国名をミャンマーといい、社会主義を掲げる軍事政権下にあって、私たち一般市民との付き合いの少ないところだが、東南アジアの例にもれず、古くからフットボールは盛んで、かつては日本代表の訪問(1955年1月)やビルマ代表の来日(55年10月)といった交流もあった。この頃の同国代表のレベルは高く、1966年の第5回アジア競技大会(バンコク)では初優勝している。

 チョー・ディンさんが来日していたのは、このアジアチャンピオンの時代よりもさらに古く、1920年から30年のこと。当時のビルマは、英国との戦争に敗れて1886年に支配下に入り、インド総督の管理下にあった。
 来日の目的は日本の工業技術を学ぶためで、蔵前にあった東京工業大学に留学していた。
 日本は、明治37、38年(1904−05年)に大国ロシアとの大戦争を切り抜け、第1次世界大戦(1914−18年)も勝者・連合国側に立って、国力も伸びようとしていた。教育制度も整って、アジア各国からの留学生も増えていた。

 チョー・ディンさんは棒高跳びの選手、陸上競技のアスリートだったというから、英国式にいえば中上流社会の人だろう。そのスポーツ好きの彼が、東京高師附属中学校でボールを蹴るようになり、やがて早稲田高等学院のチームを指導するようになった。早大の予科ともいうべき高等学院は、1921年に設立、その初等部に入学したのが鈴木重義(1902−71年)。高師附属中学時代からサッカーに熱中していた鈴木さんがチョー・ディンに指導を頼んだのだった。

 1921年にJFA(日本サッカー協会)が創立されたとき、東大の学生であった野津謙(第4代JFA会長、1891−1983年)や新田純興(第2回殿堂入り、1897−1984年)たちが協会設立や第1回全国優勝大会(現・天皇杯)開催などに働いたことはすでに述べたが、その野津さんが考え出したのが全国高等学校優勝大会(旧・インターハイ)。今はなくなったが、帝国大学(東大や京大)へ進むための予備校あるいは予科的な高等学校のサッカー全国大会を開くことで、高校のレベルアップを図ろうとした。
 国立大学の予科的存在ということになると、私立大学の雄、早稲田の高等学院(略称・早高)は、いささか筋違いだが、発案者であり、実行の責任者でもあった野津さんと鈴木さんとの交渉で、早高の出場が認められる。その第1回大会(1923年1月)で、早高が優勝してしまう。「設立早々、歴史の浅い早高の優勝は、チョー・ディンの指導のおかげ――」という評判が広まったのはいうまでもない。
 その評判は、チョー・ディンさんの指導を受けたい――という要請となる。

 サッカーが好きで、教えた効果が大きく、評判が良いとなれば、指導に力が入るのは当然のこと。高等学校だけでなく、師範学校などからの希望も相次いだ。1月のインターハイ決勝で早高に0−2で敗れた山口高校の選手だった竹腰重丸(第1回殿堂入り、1906−80年)さんは、そのチョー・ディンのコーチ行脚に同行して、彼のサッカーを吸収した。
 自分でプレーの模範を示して、キックやトラップといった基礎技術から、戦術に至るまで、分かりやすく説明したのだが、指導のテキスト、「HOW TO PLRY ASSOCIATION FOOTBALL」を英文で書き、これを高師附属OBあるいは早高の選手、アスリート仲間によって日本語版を1923年8月23日に出版した。
 そのテキストの日本語版制作のすぐあと9月1日にあの大地震、関東大震災が東京とその周辺を壊滅状態にしてしまう。
 チョー・ディンの留学先、東京工業大学も校舎が倒れて授業ができなくなり、しばらく休校となる。その休みの期間に巡回コーチが続くことになった。

「科学を勉強しているだけあってチョー・ディンの指導は理論的で、キックのフォームなどの説明も納得がゆくものだった」とは、竹腰重丸さんの感想。旧制の高等学校は徹底的に練習すると同時に、理論の追求にも熱心な風潮があったから、基礎技術、戦術についての理論の浸透も早かったことだろう。
 そしてまた、この人はスコットランド人から習ったらしく、19世紀から20世紀はじめの、いわゆるスコットランドのパッシングゲーム、パス重視の流れを汲んでいたのも、その後の日本に大きな影響を与えることになった。


(サッカーマガジン 2010年11月9日号)

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