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好評の全国巡回コーチで日本サッカーの技術革新につなげた


 大正末期に日本各地を巡回して、当時のサッカーの技術、戦術の進化に力のあったビルマ人留学生チョー・ディン(Kyaw Din)さんは、自ら模範を示してプレーの指導をしたが、そればかりでなく自ら英文で「HOW TO PLAY ASSOCIATION FOOTBALL」(By Kyaw Din)のテキストを書き、早稲田や東京高師附属中学の友人たちに助けられて、日本語版を1923年8月23日に出版した。
 66ページ、いまの新書版の大きさで、▽総論に始まり、▽蹴球家(フットボーラー)に対する忠告、▽攻撃、▽守備、▽キャプテンの選択、▽センターフォワード、▽ライト及びレフトインナー、▽ライト及びレフトウイング、▽センターハーフ、▽フルバック、▽ゴールキーパー、といったポジションの説明から、▽キック、▽ドリブリング、▽右側タックル、▽正面タックル、▽左側タックル、▽ヘディング(側面、跳躍せずして)、▽ゴールキーパーの捕球――など、個人技術、さらには▽攻撃や防御の位置取りについてなど、サッカーシューズや競技場についても書き込まれている。
 それまで、ほとんど語られることのなかった基礎技術、たとえばキックの時に、足のどの部分をボールに当てるかといった分析は、ほとんどなかった当時では、このテキストはすべてが新鮮だったという。

 このチョー・ディンの指導で、創部して間もない早稲田高等学院(早高)が第1回インターハイで優勝、次の第2回大会(1924年)でも勝ったことはすでに紹介した。この第1回大会の早高の主将・鈴木重義(第4回殿堂入り、1902−71年)さんが、早大ア式蹴球(サッカー)部の基礎を築き、昭和初期の日本サッカー躍進期のリーダーになるのだが、鈴木さんより少し若い北川貞義さん(故人、神戸一中26回生)が中学生のころにチョー・ディンに出会った感想を聞いてみよう。

 北川さんは私・賀川(85歳)よりも卒業回数からゆくと17歳年長で、1960年代の神戸フットボールクラブの創設期から加藤正信ドクター(故人)を助けてクラブの設立、運営にかかわり続けた大先輩(今の神戸FCの北川貞和事務局長は貞義さんのご次男)。大正12年−14年(1923−25年)の神戸一中の第1期黄金時代のメンバーであった北川さんたちは1924年のある日、チョー・ディンに半日コーチを受けただけで、一気に開花した喜びを折に触れて私に語っていた。
 曰く「御影師範の招きで1週間ばかりチョー・ディンさんが滞在していたとき、範多竜平先輩(神戸一中19回生)が宝塚歌劇に招待したついでに、そこのグラウンドで私たちが半日ばかり教えてもらった。
 それまでは、ガムシャラに走り、蹴り、滑って(スライディングタックル)いたのだが、この人から基礎技術の一つひとつの型を教わった。インステップキック、サイドキックなどの基本、正面のタックル、スライディングタックルの基本、ショートパス、スルーパスの基本などを理路整然と説明してくれた。
 御影師範に勝ちたいと、懸命に練習してきたが、基本技術にも、パス攻撃にも、疑問はいっぱいあった。それらが、チョー・ディンさんの説明と自ら示す模範とで、次々に解明された感があった」
 師範学校は学校制度上から、最上級生は旧中学生よりも2歳年長になるのが普通で、発育盛りのこの年齢期での2歳のハンディは体格、体力の面だけでも大きく、中学生には勝ち難い相手だった。

 北川さんより1年下の野口公義さん(27回)は「それまで左右のウイングがコーナー近くまで深くドリブルで攻め込んでセンタリング(クロス)した球をヘディングしたりして決めるのが攻撃のやり方だったが、チョー・ディンさんからショートパスや三角パスを習い、素早く覚えた」
 野口さんと同期の沢野定義さん(27回)も「ボールは靴で蹴るんだ、という程度だった我々が、キックにいろいろな種類のあること、タックルのさまざまな方法などを教えられ、すべてが驚異だった。これを覚え使いこなすようになって、神戸一中独特のショートパス、スルーパスが完璧に近いまでに使いこなせるようになった」と記している。

 昭和、大正のサッカーの博覧強記、田辺五兵衛元JFA副会長(第1回殿堂入り、1908−72年)はかつて、こう記している。
「チョー・ディンによって、神戸一中は大きなものを握った。それによって日本のサッカーの戦術は変わってしまったのだ」と。
 チョー・ディンさん自身が彼のテキストの総論のところで、「ア式蹴球はスコットランドに300年以前に起源を有す」と記しているから、彼にサッカーを教えた英国人(ブリティッシュ)はイングランドではなく、おそらくスコットランド人だったはず。
 そのスコットランド流のパッシングゲームがビルマ人学生によって日本に植え込まれ、90年の歩みの中で芽を出して大きな木となっている。


(サッカーマガジン 2010年11月16日号)

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