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1927年第8回極東大会、チョー・ディンの弟子たちが初勝利


 11月2日夜に、神戸で日本フットサルリーグ(Fリーグ)のデウソン神戸対名古屋オーシャンズの試合を見て、3日には奈良の談山神社の蹴鞠祭を拝観した。
 名古屋オーシャンズは評判通りのうまさ、強さだった。神戸がしっかり守って、時折のチャンスをモノにしたから、とても面白い試合だった。3−2で名古屋の勝ちではあったが、観客2,215人の皆さんにも楽しい夜となったはず。
 帰りの車の中で、セルジオ越後がフットサルの普及に懸命でブラジルからチームを呼んだ(当時はサロン・フットボールといっていた)30年前のことを思い出していた。
 それよりずっと以前に、大阪府立体育会館(大相撲大阪場所の会場)のこけら落としの行事で、関西のOB選抜と学生選抜の「インドア・サッカー」の試合を行なったことなどが甦ってきた。
 もっと古く、1465年前の故事にちなむ「談山神社」の話は別の機会に譲るとして、日本サッカーの90年にかかわる話に戻ると――

 JFAの創設(1921年)によって、全国優勝大会(天皇杯)の開催がはじまり、地域予選も行なうようになり、さらに東京帝大(東大)の主催する全国高等学校大会(インターハイ、のちに京大も主催に加わる)が、1923年にスタートし、それまでの中学校を主とした地域大会の上に、一つ上の年齢層の大会が加わり、1924年には、関東と関西の大学リーグは始まった。
 今風にいえばU−18、U−21、U−24といった年齢層の若者への学校を通じての浸透が進むようになった。このことは、ときに重複しながら紹介してきたが、こうした普及の流れの中で、東京高等師範(現・筑波大学)のフットボール部関係者の果たした大きな役割を改めて強調しておきたい。

 同時に、明治27年、28年の日清戦争(1894−95年)以降に、日本各地の学校の英語教師として赴任してきた英国系の先生たちによるサッカー指導も、普及の大きな力となったことも記憶にとどめたい。私自身がまだ全国的に実例を詳しく見ているわけではないけれど、それぞれの学校でのこの人たちの業績もいずれ明らかになると思っている。

 日清戦争から10年後の日露戦争にかけての間に、日本の国内事情はNHKの大河ドラマ「坂の上の雲」の原作者、司馬遼太郎さんの同名の小説によっても描かれているが、大国ロシアを相手に国運をかけての大戦争の前にも、サッカーを始めとするスポーツが、学校の中で根を下ろし始めているのが、太平洋戦争を経験した私からみても、とても面白いところだ。
 東京高師のフットボール部の中村覚之助さん(故人)を中心に編纂された「アソシエーションフットボール」の出版も1903年、つまりロシアとの大戦の前だった。

 こうした明治中期のサッカーへの情熱が、大正に入って第3回極東大会(1917年)への参加となる。ただし、そこで日本代表は、フィリピンと中華民国の代表との戦いで、自分たちの技術が低いことを思い知らされる。
 そのあとの極東大会の本番での成績はというと、2度目の参加の第5回(1921年、上海)も2敗、次の第6回大会(1923年、大阪)も連敗した。
 こうした「勝てない極東大会」で、初めての勝利は、4回目の参加となった第8回大会(昭和2年、1927年、上海)だった。

 日本代表はJFAの各支部での予選を行なったあと、東京での最終予選を経て早稲田WMW(早大の学生、OB混合チーム)が代表となった。早稲田といえばチョー・ディンの指導で、第1回インターハイで優勝した早稲田高等学院が、そのまま大学へと成長してきたことで、すでに連載に登場している。彼らは次の年のインターハイにも勝ち、第1回の関東大学リーグにも4勝1敗で優勝していた。この関東大学リーグでは、次の年から東大の6年連続優勝か続く。インターハイでは活躍した選手たちが進学した強みなのだが、ここにもチョー・ディンの影を見ることになる。

 第8回極東大会の国内予選で勝った早大WMWは、主将で監督でもあった鈴木重義さん(1902−91年)の手作りチームで、
有馬英夫(早大OB)
玉井操(早大3年、FW)
朝倉保(同、FW)
鈴木重義(同、FW)
杉村(野村)正二郎(早大2年、HB)
横村(轡田)三男(早大1年、FW)
高橋茂(同、FW)
杉村正三郎(同、HB)
高師康(同、HB)
瀧通世(同、HB)
本田長康(早高2年、GK)
梶田実(同、HB)
松沢藤一郎(同、HB)
井出多米夫(早高1年、FB)と早稲田の15人に補強メンバーとして、
竹腰重丸(東大、HB)
西川潤之(法大、GK)
春山泰雄(水戸商、FW)
近藤台五郎(同、FB)の4人が加わった。

 竹腰重丸、通称ノコさんは、山口高校時代からチョー・ディンに師事して巡回指導にも付き合っていた。春山さんたち4人は、東京高師附属中学の出身で、若いうちからチョー・ディンに接していたから、それぞれ個人の力を買ってのことだろうが、チョー・ディンの弟子というところも、鈴木さんがチームに引き入れた理由だろう。
 彼らが日本代表となって、チョー・ディン指導の成果を上海で見せることになる。


(サッカーマガジン 2010年11月23日号)

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