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昭和初期の日本サッカー技術力アップのリーダーとなったチョー・ディンの弟子たち


 中国・広州でのアジア競技大会で、U−21日本代表が中国(3−0)マレーシア(2−0)を破って2勝し、第3戦を待たずに16強進出を決めた。
 2センターバックがしっかりしていて、自分から仕掛けて、ドリブルとパスの組み合わせでチャンスをつくれる選手もいる。奪われたボールをすぐに取り返しにゆく姿勢も良かった。
 もう少しプレッシングの強い相手と当たるようになって、どのようなプレーをするのか、これからの楽しみとしている。

 90年の歴史を振り返る本題に戻ると、戦前の極東大会での1勝が創立(1921年)間もないJFAの、大正末期から昭和初期にかけての目標の一つだったことは、これまでの連載でご紹介したとおり。そのチャンスが昭和2年(1927年)8月の上海での第8回大会だった。
 このアジア競技大会は、太平洋戦争の後の1951年に第1回大会をインドのニューデリーで開いたのが始まり。大戦前にあった東アジアの極東選手権大会(通称・極東大会)と西アジア競技大会を受け継ぎ、一つにしたもので、ときのインド首相ネールさんの提唱だった。

 第8回大会は、8月27日から9月3日まで上海のフランス租界パイオニア運動場で、▽陸上、▽混成、▽水上(水泳)、▽野球、▽庭球(テニス)、▽蹴球(サッカー)、▽排球(バレーボール)、▽籠球(バスケットボール)の8競技を行ない、各競技の団体順位の合計で、総合優勝を決める仕組みをとり、総合優勝国には大正天皇賜杯が贈られることになっていた。

 蹴球は8月27日に、まず日本対中華民国が行なわれ、中華が5−1で勝った。チョー・ディンの指導を受けて以来、急速に力をつけた早大WMWに4人の補強選手を加えた日本(この日は補強3人が出場)は、前半始めは中国を圧迫したが、得点できず、21分に相手のドリブル突破に1点を失い、32分、37分にも追加点。終了間際に1点を返して1−3で前半を終える。後半も攻勢に出る日本を中国は巧みに防いで、2点を加えた。
 技術力でも試合経験でも相手の方が一枚上に見えたが、当日、左DFとして出場した鈴木キャプテンは「中国は、全体として足技が巧みで両ウイングはランニングも速くて当方は相当に苦しめられた。しかし、各自の技に自信を持つために、個人プレーが多くて、コンビネーションはあまり良くない。日本はコンビネーションを磨けば勝てると信じている」と言っている。

 対フィリピンは8月29日、午後5時10分キックオフで、2戦目で調子の上がった日本は、再三チャンスをつくったが、フィリピンGKメデルの好守で得点できず、カウンターで1点を失った。後半半ばまで0−1だったが、攻勢を続けるうちに相手のハンドの反則でPKのチャンスを得て、鈴木キャプテンが決めて同点。さらに春山、竹腰の攻めから竹腰が決めて2−1。この大会で初めての勝利を挙げた。

 この日本代表の国際舞台での最初の勝利は、大会の総合優勝を決める上でも大きな力となった。
 8競技のうち1位となった競技の数で決めるのだが、日本は優勝と踏んでいた庭球と水上でトップ級の選手の不参加が響いてフィリピンに1位を奪われ、そのため、日本と中華が3つずつの同数(フィリピンは2)。そこで、2位の種目の数の比較となり、日本3、中華2で、日本の総合1位となったのだった。
 その2位の一つが、それまで負けに決まっていたサッカーだったのだから、体協の中でJFA株も上がった。

 鈴木キャプテンはJFA理事となった。昭和3年度のJFA会報の「極東オリンピック大会記録」の中で「数年の臥薪嘗胆が報いられ、比律賓を破り第2位を獲得したことは、わが蹴球史上の一大エポックであり、且またわれわれの第2位を得たことがひいて今回の天皇杯獲得の力となったことは同慶に堪えない」と言い、「次の昭和5年(1930年)極東大会で両国を倒して、さらに世界の舞台へ乗り出そう――」と説いている。

 チョー・ディンというビルマ人留学生の技術指導を引き出した鈴木さんによって、早稲田大学というサッカー界の新勢力が東大に対抗して生まれるとともに、インターハイや、またチョー・ディン自身の巡回指導を通じて、サッカーの急激なレベルアップのあとを辿ると、1960年のデットマール・クラマーの業績にも比べられる大きな仕事がJFA創立後の短期間にあったことを知る。
 このチョー・ディンの直弟子であり、かつ、人心収攬の巧みな「ぽんぽんさん」こと鈴木重義と、チョー・ディンをステップに終身サッカーにのめり込む「ノコさん」竹腰重丸のペアが、昭和5年(1930年)の第9回極東大会、11年(1936年)のベルリン・オリンピックと、日本代表の昭和初期の栄光をリードすることになる。


(サッカーマガジン 2010年11月30日号)

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