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広島、神戸、名古屋、各地各様の伏流がやがて日本代表へJFA創設からの急速進化
終盤に入ったJリーグで名古屋グランパスがトップを走り、初優勝が濃厚になってきた。「サッカーではどんなことでも起き得る」というのが外国人監督たちの口グセだから、あまり早くからの優勝うんぬんは控えたいが、リーグタイトルから久しく遠かったこの地方にとっても、日本サッカー界にとっても、躍進グランパスやそのグランパス出身の本田圭佑の国際舞台での活躍は、ビッグで明るく、刺激的な話題といえる。
戦前の甲子園、全国中等学校野球選手権大会での中京商業、あるいはプロ野球の中日ドラゴンズなど知られているとおり、中京地区は早くから野球王国。あのイチローもこの地の産――。サッカーはその野球の陰に隠れた感はあるけれど、日本サッカーの歴史の中で、名古屋は重要なパーツを受け持っている。
その90年の歩みを眺めるこの連載で、私たちはビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディンの指導のおかげで、1992年に日本代表がフィリピンを2−1で破り、国際舞台での初勝利を記録するのを前号で記した。
日本代表は早大WMWを中心に4人を補強したチームで、鈴木重義(1902−71年)という優れたリーダーによって早大がサッカー界にも(他の競技とともに)大きな勢力となる基礎を築くことになるのだが、その早大とともに大正末期から昭和にかけて日本の大学サッカーのトップにあったのが東京帝国大学(現・東大)。すでにお伝えしたとおり、野津謙第4代JFA会長(故人)が東大在学中に提唱し1923年にスタートしたインターハイ(全国高等学校大会)のために技と体を練った選手たちが東大に集まり、1926年の第3回関東大学リーグで初優勝したあと1931年の第8回まで6連続優勝した。
その東大のサッカーのスタートは名古屋の第八高等学校(八高)の出身者によるといわれている。八高は英国人教師のウィルデン・ハートによって1910年に蹴球部が生まれ、大正3年(1914年)には東京高師と試合をした記録もあって、高等学校の中では早い時期にサッカーを導入していたところ。東大のなかで、まず八高の出身者だけでボールを蹴る集まりが生まれたらしく、1918年の第1回関東蹴球大会に、このチームが帝大(東大)蹴球団の名で招待試合に参加していた。
この八高出身者限定のクラブは、各高校出身者による全学チームへと変わり、やがて竹腰重丸(第1回殿堂入り、1906−80年)通称「ノコさん」を中心とする強力チームになってゆくのだが、その昭和初期の日本ナンバーワンの東大クラブが、名古屋の八高に端を発しているというところが面白い。
八高の名が出れば高山忠雄(神戸高校校長、元日本代表、1904−80年)の名が出ることになる。神戸一中23回生(大正11年、1922年卒業)で、私・賀川(43回)より20歳年長のこの人は、近頃評判の白洲次郎さんより1年下。戦後の日本の政治、対米外交のなかで欠かせぬ白州さんがサッカー選手であったことはあまり知られていないが、5年生ときはキャプテンだった。白洲さんは長身で「かっこいい」ことで評判だが、高山さんも当時の選手としては体格が良く、足が速く、ずば抜けた素材だった。残念ながら高山先生の頃の神戸一中は、まだチョー・ディンに出会う前で、御影師範になかなか勝てなかった。神戸外人クラブ(KR&AC)という外国人のスポーツクラブとの交流で、サッカーの知識は進んでいた。ただし、それはイングランドのドリブルと左右からのクロスという流儀だった。
その神戸一中が1919年に衝撃を受けたのは、チェコの軍隊チームとの試合――、短いパスを巧みにつないで、攻撃する軍人たちに0−8で大敗した。もちろん、体格の差も個人技術の差も大きかったが、未経験の短パス攻撃に全く驚いたという。
高山忠雄はこのとき3年生、右ウイングだった。1922年に八高に入り、次の年、インターハイに出場、合宿所もできて八高の黄金時代が到来、インターハイでも注目されるチームとなった。高山さんはこの八高を経て東大へ。同じ神戸一中3年のときに「チェコ」を経験したDF小畠政俊は松山高校を経てやはり東大へ進み、同年代のノコさんとともに東大のショートパス・チームをつくることになる。
小畠と並ぶDFの豊田善右衛門は慶應で松丸貞一たちとドイツ流組織サッカーへ向かうことになる。
すでにこの連載で紹介したとおり、広島では第一次世界大戦で捕虜となったドイツ人たちとの交流によって個人技術や戦術がレベルアップしていた。1923年の神戸一中の選手たちは神戸高等商業主催の大会で広島一中や広島高師附属中学を破って優勝したとき、日本フートボール大会で勝つよりも値打ちがあると喜んだものだ。
東京高等師範から各地の師範学校へ――という大きな流れとともに、それぞれの地域で、英国人教師やドイツ人捕虜、あるいはチェコ軍隊――といった、さまざまな経路で技術面、戦術面で影響を受けた地域のプレーヤーが、チョー・ディンの指導でさらに啓発されたことが、JFA誕生後の急速なレベルアップにつながった――と私は見ている。
国際舞台での初勝利のあとの前進ぶりを次号から見てゆきたい。
(サッカーマガジン 2010年12月7日号)