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1950年代に全国実業団6連勝94戦無敗の田辺製薬の守りの柱 宮田孝治(上)


テレビの岡田前代表監督から……

 6月28日、NHKのお昼の番組「スタジオパークからこんにちは」に岡田武史・前日本代表監督が出演していた。楽しい語りを聞きながら、早大での練習の話のところで、どういうわけか私の頭に彼の早大の先輩たちの顔と名前が次々に浮かんできた。
 その中に60年前、1951年の第1回アジア大会(ニューデリー)に出場した日本代表のHB(今でいう守備的MF)宮田孝治さん(1923年生まれ)がいた。
 早大を出た日本代表のMFといえば、まず、三菱重工と代表で活躍した森孝慈(1943年生まれ、第3回日本サッカー殿堂入り)の名を挙げるのが普通だろう。森は修道高校のころから攻撃力のあるHBとして知られていて、いわば、今の守備的MFが攻撃にも働くようになる――岡田武史選手もその点で光るものがあった――新時代のHBに近いのだが、この宮田さんのころのHBは守備の比重が大きかった。ひと時代前のサッカーといえるけれど、そのプレーが急に浮かんできたのは、ここしばらく、テレビでドイツでの女子ワールドカップ、メキシコでのU-17ワールドカップ、そしてU-22のロンドンーオリンピック2次予選(対クウェート)といった現代の各層の代表選手のプレー(もちろん、キリンカップでの日本代表も見た)を見続けたせいかもしれない。その試合の中で、それぞれの日本代表チームが見事な攻撃展開でゴールを奪いながら、相手の一発のパスの競り合いで受け身になり、そこからゴールを取られてしまう例をたびたび見ているからだろう。
 長い時間をかけた育成の努力の後、1993年のJリーグのスタート、サッカーのプロ化によって、さらに2002年のワールドカップ開催とその後の国際試合の好成績によって、日本代表の世界的な地位は向上し、日本のサッカー環境も急激に向上した。そのために若く有望なプレーヤーが続出していて、今度のU-17も1次リーグをトップで通過し、女子もタイトルを狙うと意気込んでいる。しかし、そうした中で‘守り’ということになると、組織的に守るとか、相手を上回る運動量で常に多数防御でボールを取る――ということと同時に向上すべき1対1でのボール奪取力は必ずしも大きくは伸びていない。そんな現実の中で守りのしっかりした、いつも相手FWに嫌がられていた宮田孝治さんの顔が、彼の後輩のテレビ画面に重なったのかもしれない。


ボール奪取の確かな技術

宮田孝治という選手は大柄ではなかった。足も速い方ではない。それでも相手との間合いを計り、接近し、自分の間合いに入れて足を出してボールを奪う技術は誠に確かだった。周囲への目配りもしっかりしていた。
 田辺製薬が1950生代に94戦無敗、あるいは実業団大会6連勝を記録したときの守りの柱でもあった。
 宮田さんが日本代表を退いた後、メルボルン・オリンピックに出場のアメリカ合衆国代表チームが日本に立ち寄って試合をした。宮田さんは関西選抜に入って相手をしたが、試合後、アメリカの役員は「関西選抜のミヤタ選手がなぜ、日本代表に入っていないのか」と言った。理由は「彼がいた前半は、こちらの攻撃は見事に防がれた。一番しっかりしたディフェンダーを大会に連れてゆくべきだろう」と。このエピソードは“防ぐこと”に関して、33歳の宮田選手の力の確かさを示したものといえる。ちなみに岡田武史前代表監督はこの生に生まれている。
 宮田さんは旧制神戸一中(現・神戸高校)の41回生。私より2歳上で、兄・太郎(1922年〜90年、第2回日本サッカー殿堂入り)と同学年。御影師範付属小学校で小学生のころからサッカーに親しみ、神戸一中でも低学生のときから練習熱心で知られていた。体が小さくて足も速くなかったが、1年生大会も3年生以下のジュニア大会でもレギュラーとして活躍した。その負けず嫌いは、あるとき私に語った「一生懸命練習したのに、3生になったらターヤン(賀川太郎)の方が先にレギュラーになって、試合に出た」にも表れている。兄・太郎は体力的にも同年代ではずば抜けていて、2歳年長の師範学校の選手たち(最上級生なら3、4歳の差)とも戦っていたのだが、その負けず嫌いは体がしっかりし、徐々に大きく(普通サイズ)なることで、ピッチの上で発揮される。
 1938年、今から73年前の8月、第20回全国中等学校選手権大会で神戸一中が5回目の優勝を遂げたとき、4年生の宮田選手は優勝メンバーとなった。


(月刊グラン2011年8月号 No.209)

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